昔書いた台本形式の小説に対する是非について、そこそこ反響があってとても嬉しいです。
大抵は否定的ですが、それもまたよし。
自分の考えというのは大事ですからね。

ただ、前回の記事はあくまで台本形式の是非を問うことを目的としており、詳細な技術的側面は省いておりました。
そこについてツッコミを受けましたので、今回はその補足というか文章を省くことに対する技術面の解説をしたいと思います。
まずは頂いたととこさんのコメントを原文ままで掲載させていただきます。

男女の軽い会話は台本形式の方がわかりやすいというのは、それこそ台本形式の粗悪本の原因じゃないですか?
どう見ても面白いというのは作者の主観ですし、作風というものもあります。
ゆえに、おなじ小説の作者として、もしくは読者側から言わせてもらいます。
キャラクターは軽い会話を棒立ちでしてるんですか?
多少の身振り手振りすらないんですか?
「痛!殴るなよ」とセリフがあれば殴られたって判断できる、という方も多く見られますが具体的にどこを殴られて、実際に痛みを感じたのか、軽口で痛いと言ったのか、他にも付け足せる情報が多くあると思います。
会話からニュアンスを読み取って読者に脳内補完してほしいっていうのは甘えじゃないですか?
たしかに、暗にチャットだけが悪いとは思いません。米澤穂信さんの氷菓にもチャット形式の文章がありましたし、私小説界隈のチャンネル形式だって読みづらく面白くないと基本的に思いますが、その中にも面白いものはあります。
台本形式もそれが一つの文学になるとは思いますけれど、それは他の手法で試行錯誤してから初めてやれる手法だと私は思います。

私が前回書いた「台本形式が嫌われる理由」の記事を三行でまとめるとこんな感じ。

・台本形式小説じゃないは間違い。
・台本形式は元々2ちゃんのスレッド形式から生まれた技術(戯曲形式)。
・台本形式が嫌われるのは初心者が技術じゃなく手抜きで使うから。

実はこのコメント、割と私が記事で書いていることと被っているんですよね。
ただしラストに関しては少しばかり危険思想かなと思います。

たしかに、暗にチャットだけが悪いとは思いません。米澤穂信さんの氷菓にもチャット形式の文章がありましたし、私小説界隈のチャンネル形式だって読みづらく面白くないと基本的に思いますが、その中にも面白いものはあります。
台本形式もそれが一つの文学になるとは思いますけれど、それは他の手法で試行錯誤してから初めてやれる手法だと私は思います。

例えば5ちゃんスレッド形式など、戯曲形式前提の場で挑戦している人はスタートからゴールまで一貫して戯曲形式なのですよ。
だって戯曲形式そのものが好きだから。
もちろん、戯曲形式としての面白さを味わった上でそう思っているわけです。

それでも初心者は戯曲形式書くこと自体が禁止! まず普通の小説書けるようにならないと駄目! と言い切るのはどうなのでしょう。
それってつまり、上手くないと戯曲形式作品を発表してはいけないと同義です。

「私は戯曲形式が好きだから戯曲形式を極めたい。成長するために頑張って投稿するぞ!」って人を否定していい権利は誰にもありません。
何を書くかは個々の自由。その前提を破壊するのはよろしくないと思います。

まあ、これは枝葉の部分の指摘でして、今回の肝心要はここ。

会話からニュアンスを読み取って読者に脳内補完してほしいっていうのは甘えじゃないですか?

つまり、ととこさんは表現を省略して脳内補完させるのは悪いことだと考えているのでしょう。
台本形式=チャット形式と言い切っているところからも、それはなんとなく読み取れます。
故に台本形式は認められない。

私はそもそも『省略』とは技術の一種だと思っていて、台本形式についての記事もその前提で書いていました。
多分、そういう認識のズレが存在するのではないかと。
そして、多分これは台本形式について、少なくない人が思っているのでは? とそんな予感がしました。

というか、私も昔は似たような理由で台本形式を忌避していた時期はあります。
でも、それだと戯曲形式で面白いと感じる作品があることに説明付けができません。

そもそも、書かない技法は私が好んで使っている技法の一つ。
なので、今回は書かない技術、『省略』の効果と使い方を解説してみたいと思います。

あえて書かないことの効果

書かない技術の本質を説明するのなら、まずはその効果を具体化するとわかりやすいだろう。
メリットなんて書き手が楽ってだけでしょ? って人は思考停止しないでもう一歩踏み込み考えてもらいたい。

例えば、貴方が食事をしながら会話するシーンを書く時に、全ての動作を文字にするだろうか?
「食べながら箸を動かす。咀嚼する。それらを一つ一つ描写しながら、咀嚼する音も全て会話の中に含ませるべきだ」と思う人はほぼいないだろう。

それだと話が進まない。会話のテンポ自体もあまりに悪くなってしまう。
つまり省略とは、必要のない描写をあえて省いて話のテンポを良くする技術である。

では、次にどういう場面で省略は有効に働くだろうか。
これもわかりやすい例を上げてしまえば、あまり重要ではない場面だ。

まずは具体的なシーンを設定してみよう。
シチュエーション的にはオフィスで仕事中、定時間際で女性の先輩に話しかけられた時とする。

「ねえ、真木君。ちょっとお願いがあるんだけど、いいかな?」

「え? ええと、なんですか?」

「今日この後、時間あるかな」

「それは……何かありましたか?」

「この報告書今日に仕上げないといけなくて、手伝ってもらえないかな」

「それって先輩が昼前に自分でやるからって引き取ったやつですよね?」

「そうなんだけどね。他の作業が割り込んで。真木君なら一時間くらいで仕上げられると思うから。ダメ?」

「ううっ、わかりました……」

これはコメントだと所謂この場面だ。

キャラクターは軽い会話を棒立ちでしてるんですか?
多少の身振り手振りすらないんですか?

まず、先に書いたよう作業中に話しかけられた前提。
直前までPCを触っていて割り込んだ会話なら、手は大抵PC近くに置かれたままで、あえて綿密に描写しなくても読者は座っていると想像する。
内容も身振り手振りが必要な類でもない。

これなら会話だけでOKだろうか?
答えとしては状況次第で変わるだろうと私は思う。

話しかけてきた先輩社員がモブキャラで、残業中に大きな事件が起こる。
その前座となる会話だとしたら、ここはさっと終わらせるべきシーンで、細かい描写はかえって全体のテンポを悪くしてしまうだけ。

これだけだとピンとこないなら、もっと視覚的にわかりやすいマンガに置き換えて考えてみよう。

引用元:映像研には手を出すな!

ニコマ目と三コマ目の間では相手の隣まで移動して手渡して、袋を開いて中身を確認する流れが省略されている。
三コマ目自体も、一コマの中で会話のやり取りが生じているが進行に問題は特に出ていない。

マンガのコマは大事ではないところ程、基本コマは小さく情報は簡潔に処理する。
このシーンは金森氏が金に厳しい人間であることを解説しているが、キャラの性格さえ伝われば物の受け渡し自体は特に重要ではない。

小説でも同じく重要度の低い部分はあえて書かずに省略する。これは程度の問題で、誰しもが意識して、あるいは無意識に行っていることだ。

先程の会話が主人公とヒロインのやり取りで、彼らの関係性を示すシーンと考えると描写はこうなる。

「ねえ、真木君。ちょっとお願いがあるんだけど、いいかな?」

「え? ええと、なんですか?」

突然密かに憧れている室江先輩に呼びかけられて、僕は思わず狼狽えてしまった。

「今日この後、時間あるかな」

「それは……何かありましたか?」

今日はこれから友達と飲みにいく約束をしている。久方ぶりの、ちょっとした同窓会みたいなものだ。

「この報告書今日に仕上げないといけなくて、手伝ってもらえないかな」

「それって先輩が昼前に自分でやるからって引き取ったやつですよね?」

「そうなんだけどね。他の作業が割り込んで。真木君なら一時間くらいで仕上げられると思うから。ダメ?」

正直、今日の飲み会は楽しみにしていた。
けれど、他の誰でもなく僕を頼ってくれた。それに彼女の不安気な表情を見るとどうしても断れない。

「ううっ、わかりました……」

これによってキャラの関係性と感情は見えやすくなった。
確かに地の文を加えることで、会話だけでは読み取れない部分を補完できる。
というか地の文で場面の内容はそもそもある程度自由に変えられる。

だが、その分話のテンポは悪くなった。
これはあくまで主人公とヒロインのやり取りで、尺を割く価値が出てきた事実の上で成り立つ。

これが戯曲形式なら、最初から最後までテンポよく、リアルタイムで追ってライブ感覚で話が作られる。といった要素も追加されるだろう。
そういう事情や文化を理解した上で読むかどうかで、スレッド形式で展開される小説は楽しめるかどうかは決まる。
実のところ戯曲形式は小説家になろうにおける『なろう系』のような独自に発展してきた文化で、しかもこちらの方が歴史は古い。

場面ごとに描写をどこまで書き込むかは、そのシーンの重要度と全体のテンポで決まる。
ただそういう意図を持たず、何でもかんでも省略するのは技術ではなく手抜きだ。

書かないとは想像させる技術

戯曲形式以外にも、例えば『なろう系』ではしばしば容姿や重要な要素が文章からガリガリ削られる。
普通の小説に慣れていると、そりゃもうビックリするぐらい削り落とされていく。

事実としてこれを嫌う人は多く、私も好き嫌いで言えば後者だ。
意味合いで言えば下記に属する。

「痛!殴るなよ」とセリフがあれば殴られたって判断できる、という方も多く見られますが具体的にどこを殴られて、実際に痛みを感じたのか、軽口で痛いと言ったのか、他にも付け足せる情報が多くあると思います。

『なろう系』だと、主人公が異世界の町並みを『中世ヨーロッパみたいだ』と一言発してしまえば情景描写が終わる。
慣れてない人だとマジかよと思うかもしれないが。本当に終わってしまうのだ。
けれど、この行為には大きな意味を持った一つの技術でもある。

それは読者間に存在する共通認識だ。
中世ヨーロッパという一語で、読者は『自分の中にある中世ヨーロッパの町並』を想像する。それで脳内補完がなされるのだ。
『なろう系はWebでいかにストレスフリーにサクサク読めるか』が重要視され、そういう文体に特化した形式になっている。

ととこさんは、この脳内補完そのものを甘えじゃないかと否定していた。そう思う気持ちも理解できなくはない。
通常の小説で言えば、読者は描写から細かな情報を受け取り情景を想像する。

なろう系や戯曲形式は逆にそれを過多な情報として意図的に削ぎ落す。
後者のスタイルを好む者にとって脳内補完は『甘え』ではなく『無駄を省く』なのだ。

また、この省略によって得られる恩恵はもう一つある。それがスピード感だ。
読み手は文章量が少ない方が体感的に物語を早く感じる。
これは先程の食事描写でも説明したが、今度はもう一段上の明確な技術として解説しよう。

ボクシングの試合を文章化するとして、瞬殺されて終わったでもない限り、始まりから終わりまでを全て書ききる者はまずいないだろう。
例えばジャブの応酬。対して腕の詳細な動きや、どこを殴られ、どう痛みを感じたか。それを全部書いてしまうとむしろ描写が冗長になり、ダラダラとした試合に感じて読者は喜ばない。

牽制のジャブならそう書けば伝わり、またそれ以上の重要性がないなら、それで過不足はないと言える。

なお、これを真っ先に活かして格闘描写に取り込んだのが夢枕獏氏である。
格闘技に対して深い知識と描写経験を持ち、それをどう描けば効果的かを常に考えている人だ。

どれだけ有名な方と言えば、氏の著作で特に人気の高い格闘小説『餓狼伝』は実写化と、二人の漫画家によってコミカライズ化もされている。
一人は『孤独のグルメ』で有名な谷口ジロー氏。
もう一人は『バキ』シリーズの板垣恵介氏だ。
板垣氏は漫画家になる前からのファンで、夢枕獏氏のアクション描写に感銘を受けたと語っている。

その夢枕獏氏も餓狼伝の格闘描写において、省略の技術を巧みに使い戦いに緩急を付けている。
実際の一部を引用する。

 それは、異形のプロレスであった。
その異様さが、ゆっくりと、リングサイドから会場へ、会場から、テレビの前にいる人間へと移りつつあった。
大技は、一つも出ていなかった。
ロープに振りもしなければ、コーナーポストに登って、そこから飛び降りたりもしない。
場外乱闘もない。
そういうプロレスであった。
聞こえるのは、ふたりの選手の息づかいと、時おり発せられる、呻き声。
人の肉が、リングのキャンパスを打つ音。
人の肉が、リングのキャンパスを滑る音。
リングシューズがリングを踏む音、踏みしめる音。
オーバーリアクションもなかった。
リングは、ひっそりと静まり返り、そして熱かった。
リングから届けられてくるのは、人の肉であった。
人の肉が発する、力、緊張、熱、そのあらゆるものであった。
疾。
と、人の肉が動く。
流。
と、人の肉が滑る。
力。
と、人の肉が撓む。
跳。
と、人の肉が飛ぶ。
転。
と、人の肉が回る。
軋。
と、人の骨が鳴る。
極。
と、人の骨が曲る
堅。
と、人の骨が打つ。
投。
と、人の骨が伸る。
疾。動。
流。滑。
力。撓。
跳。飛。
転。回。
軋。鳴。
極。曲。
堅。打。
投。伸。
疾。
疾。
力。
動。
転。
転。
疾。
極。
軋。
鳴。
疾。
打。
打。
打。
極。

引用元:餓狼伝 Ⅲ

最初は詳細な状況を説明して二人の戦いを描く。
盛り上がってきたら描写を減らして、二つの肉と肉がめまぐるしくぶつかり合うスピーディーな動きを読者に想像させるのだ。
夢枕獏氏はこの他にも、省略技法と心理描写を組み合わせた素晴らしい技術をいくつも考えだし、作品として発表されてきた。

確かに描写が少ないと手抜きに見えやすい。というかWeb小説では実際に手抜きの例も多々あるだろう。
だがそれはあくまで書き手に依存する問題であり、『省略=手抜き』は必ずしも成り立たない。

なんでもかんでも省略すればいいわけでもなく、逆に綿密な描写も使い方を誤ればマイナス要因になる。
大事なのは場面毎の取捨選択によるバランスとコントロールだ。

私の文章も実のところかなり夢枕獏氏の影響を受けており、だからこそ断言できる。
省略は手抜きではなく、想像と速度を武器とした高等な技術であると。