膝枕をした次の日、朝目が覚めたら、隣で円が俺の手を握って寝てました。
 どうやら円に膝枕されてからの記憶が途絶えてるし、そのまま寝てしまったらしい。それもかなり恥ずべき失態なのはわかっているけど、それより現状をどうするかだ。
 布団の端で体の一部を外にはみ出しながら、円は小さな寝息を立てている。これは非常に愛苦しい……じゃなくて危険地帯だ。
 円は端にいると言っても元々一人用の布団だ、距離はかなり近い。しかも握られている手は、指と指が絡み合っている。
 どうしてこうなった!? 俺なんか円に悪事を働いたりし――過ぎてて思い当たりまくるな!
 どうしよう。ここで叶辺りが来ようもんなら、また修羅場って俺がナイスボート要員になってしまう。鏡や修一でもまず即死判定だ。
 こいつらの共通項は、鍵がかかってようが平然と人の家に上がり込むことである。なんて外道衆な奴等だろう。
 そんなわけで俺は一刻も早く、この死亡とよくわからないフラグが両立する何かを叩き折られねばならないのだ。つまり円を起こしてしまえばいい。たったそれだけで最悪の事態は回避できようぞ。さぁやるのじゃ。誰の口調だよこれ。
 そんな馬鹿言ってないで早く起こせよ俺。決して一人コントやって今を少しでも長続きさせたいわけではないだろう。
 そう、さっさと。とっとと。
「うにゃ……」
 おーこーせーなーいー。
 うわあ、気持ち良さそうな寝顔ですこと!
 俺はこれを起こすのか? この幸せ満面な眠り姫様を? 心から罪悪感が溢れ出す。どうせならこのまま写メって待ち受けに。それこそ何を言ってるんだ俺は。
 指も思いの外しっかりと掴まれており、力尽くでひっぺがすと起きてしまいそうだ。
 あのさ、これもう詰んでない? 将棋だとありませんとか言わないといけないシチュなのか!?
 もういっそ見つかった時の言い訳考えた方が生産的だろうか。とりあえずどっちも服はきちんと着ているので、事後ではないと言い張ればなんとか。ちょっとちょっと、それは自分から地雷にダイブしちゃってるよ! 押さなくていいのまで余計に押してる! 倍プッシュだ。使い方違うから!
 こうなったら俺の脳からツイートしてくるジョースター卿に従ってみよう。逆に考えるんだ。見つかってもいいやと考えれば! きっとなんともならんよ。いや部外者的に色々なりまくるけどな。
 ジョースターと言えばもう一つの策は逃げるだ。戦略的撤退の重要さは、経験上何度も身を持って体験してきた。しかしこれにはとても大きな欠陥がある。まあ、なんだ。逃げられないから困ってるんだよぉ!
「駄目だ。完全に頭が現実逃避してる」
 とてつもない高速回転で、空回りが絶好調だね。でも早く何とかしないと、人生終了しちゃうかもしれないぞ。だって、結婚は人生の墓場と言うじゃないですか。なんでそこまで階段飛ばすどころかワープしているよ!?
 一人でボケと突っ込みの連鎖が止まらないや。
「ん……たっくぅん……えへへ」
 また仲良さげな夢をご覧になられてる様子ですね!
 朝なのに、時間が経てばさらに起こしにくくなるっておかしいだろ! 普通は逆じゃないのか。そうだ、どうせいつかは起きる流れに円は生きている。それが少しばかり早いか遅いかの違いでしかない。
「許せ円。俺は我が身と世間体が大切なんだ」
 そして俺は空いている左手を伸ばし、円の肩を揺らそう――
「うにゅっ」
 としてたはずなのに、どーして頬っぺたつついてるのかなぁ俺は。円のぷにぷにな頬の感触を堪能して、また腕を戻してしまった。猫の肉球を思うままにぷにりまくったような満足感で満たされてどうする!
 うわ、これは駄目だ。ハンズアップだよ円さん。片手は出来ないけど。
 くそう寝言で自分の名前を呼んで、照れくさそうに笑う美少女を愛らしいと思って何が悪い!
 あれ、俺は自分が何て変態だろうと思って色々律して来たけど、存外健常者じゃないか? もういっそ開き直って、寝た振りして円を抱き枕したとしても、今なら事故で許されると思うし。まともな男子的観点で据え膳だよね、これ。
 さあ倫理観がショートして参りましたー。そもそも女の子に膝枕されて良い匂いとか思いながら寝落ちる奴が倫理観とか言うなよ。 そんで抱き枕と言えばこれまでは美羽だったのだけれど、あれは一緒に寝ると抱き付くより抱き付かれる割合の方が高かった。それはそれで素晴らしいのだけど、胸元に収まったり腕にしがみついたりする子なので、頬擦りとかできないのだ。
 今ならし放題じゃないか、円に。
 したいのか、円に?
「…………」
 何かがブレている感覚がした。らしくない。相手はノーガード戦法が基本戦術となっている円なのだ。こういう事態は何度もあった。そして何時もなら迷わずに、遠慮なく円に迷惑を被らせている。きっとそれがお互いのためになると、俺達の関係を守ってきたから。
 どうやら俺の症状はまだ収まってないらしい。だとしたら俺がすべきはただ一つ、俺は俺として円を起こすだけだ。
 と、ようやく心を決めて行動しようとしたのに、突如俺の真上から音楽が流れだした。聞き覚えのあるメロディから察するに、これは円の携帯電話だ。
「う……んっ」
 その音に反応して円がもぞもぞと身を捩じり、ゆっくりと目を開く。賢い円さんは、俺が起こさずともしっかり目覚ましをセットしていたようです。
「ふぁ、たっ君? おはよー」
「おはよう」
 のんびりした驚きの後に、朗らかな挨拶。俺は起き抜けから軽くパニックだったのに、円にはさしたる問題はないらしい。
「おはよう」
「あ、そうか。私昨日はたっ君の部屋で寝たんだっけ」
「どうしてか、手まで繋いでな」
 目覚めて間もない円へ、未だ維持してる握り合った手を強調するために、きゅっと軽く握りを強めてみた。
「にへへ」
 嬉しそうにきゅっきゅっと握り返された。俺が伝えたいのはそうじゃないよ。お気に入りですか、このおてて繋いでるの。触れ合いによる、どこかずれたコミュニケーションだった。
「俺が寝てからずっと居たのか?」
「うん、そうなるかな」
「それは駄目だろう。親子さんだって心配してるぞ」
 小野宮家の俺に対する評価もかなり心配だけど。これでは家族会議の特別ゲストとして強制ご招待されかねない。
「お母さんとお父さんにはちゃんと連絡して許可もらったから」
「どうやったら許可が降りた!」
 俺への警戒ゆるゆる過ぎだろ。もしくは信頼し過ぎている。ペテン師に娘預けてどうするよ。ペテン師じゃなくとも、同い年で一人暮らししてる少年の家に一人娘を泊めさせるな。
「お母さんに今日だけ特別にって、お願いしたから」
「そもそもお願いした理由はなんだよ」
 こいつが無茶するにはそれ相応の理由があるはずだ。と言っても俺が勝手に寝ただけで、布団に戻してさよならすれば充分だろう。そこに泊まるだけの理由が見当たらない。
「だって、泣いてたから」
「泣いてたって、俺が?」
「たっ君、私の膝で眠った後、お布団の上に運んだら涙流してたんだよ」
 悲しくて泣いたのなんて、もうまともに思い出せないくらい遥か昔だ。俺はどんな夢を見て泣いたのだろう。泣けたのだろう?
「たっ君疲れてたし、やっぱり何かあったと思って。そうしたら、もう心配で帰れなくなって……」
「それで俺の手を握って、部屋に泊まったと」
「うん」
 円も多少やり過ぎだったと思っているのだろう。しゅんとして項垂れてしまった。反省はしてるみたいだし、俺はあーだこーだ言ったりするつもりはない。むしろ、ここまで心配させてしまってたのかと、俺が反省すべきだろう。
「ありがとな」
 そう言って、左手で円の頭を撫でる。円はこうなるとは思ってなかったらしく、動揺しながらも、気恥ずかしそうに首をすくめた。
「え、あ、うん」
「でも泣いてたのは夢見が悪かっただけで、疲れてるのとは関係ないよ」
「それじゃあたっ君は何の夢を見てたの?」
「それは」
 俺が見ていた夢は。そうか、そうだったな。
「あの、ごめんね。嫌だったら言わなくたって」
「勉強竜に追われる夢」
「…………」
 ジト目されてしまった。俺は勉強竜に襲われたら逃げ切れない自信あるのに。あれに勝てるのは、赤ペン先生くらいなものだろう。
「冗談だよ。けど、円の可愛い寝顔見てたら忘れちゃった」
「ふへ!?」
 瞬時に円の顔が耳まで真っ赤になった。ほんに素直で憂い奴じゃのう。癒される。
 この円なら、一時間以上愛でていても飽きないね。
「もー、変なこと言わないでよう。私、朝御飯の準備してくるね」
 怒ってるように見せていてはいるが、どう見たって照れ隠しだ。そして頬の緩みを抑えきれないのだろう。円は自分から退室を申し出てきた。俺からすればしてやったりである。
「うーい」
 ただしそれでも、俺は平素な軽い素振りで相槌を打つ。
 ようやく円と俺の指は離れ分かたれた。少し円は名残惜しそうに自分の指を見ていたけど。あいつはその手に、どんな繋がりを見出だしていたのだろう。
 円は部屋を出ていき、ようやっと俺はあの人生の危機から逃げられた。もとい逃げきった。
「夢ね……」
 どちらかと言えば追憶だったけど。自分でも泣いてた理由まではわからなくとも、現実に俺は泣いていた。
 当時の俺は、それこそよく泣いていたっけ。薄っぺらい心が流した、心からの滴りだった。
 あの喪失を忘れるわけはない、俺にとっては俺の根源であり、あれがあったから俺は俺になったのだ。
 俺が壊された記憶にして、俺が生まれた記憶。
 俺はまだ、あの人の影を追い求めているのか? その影さえ踏めなくなったのは、俺が原因だ。あの頃の俺をもう許してやるなんてのは、覚悟を捨て去った都合の良い妄言なのに。
 誰が俺を許したとしても、俺が俺を許してはならない。一生心に刻んでいかねばならない俺の業だ。
 俺は円と握りあっていた手を見る。あいつの温もりが薄れていくのを感じて、寂しいと思った。