教室を破壊し、シュヴルーズを失神させたルイズが受けた罰は、魔法使用不可での後片付けだった。
元来魔法が使えないルイズにとっては、付随の条件が機能しないのは言うまでもない。
それでも教室を著しく損傷させ一時的とはいえ使用不能にし、教師に怪我まで負わせたというのに、与えられたペナルティは思いのほか小さいものだった。
これはシュヴルーズが生徒達の制止を聞き入れず、ルイズに魔法を使わせたことも問題として扱われたためである。
主人と使い魔は一心同体という理屈から、禊も手伝い二人で片付けているのだが、会話もなく無言で黙々と作業をこなしているだけだ。
ルイズは、禊にとってゼロというあだ名はルイズで遊ぶ恰好の燃料であり、喜々としてなじってくるだろうと思っていた。そのためルイズからすれば、この沈黙は逆にいつ刑が執行されるかわからぬままに、絞首台に乗せられ続けているようなものだ。
まさか余りの哀れさに禊の同情を買ったというのだろうか。たった二日でうんざりするまで弄られていたのだから、その想像をする方がルイズの心には堪える。
やがてこの沈黙に耐え切れなくなったルイズが先に口を開いた。
「ねえ」
話しかけられても、聞こえてないみたいに禊は何も応えない。一人でホウキを使って塵を集めているだけだ。
「これが私の二つ名、ゼロって呼ばれている理由よ」
禊は応えず、あくまで沈黙を守る。自ら走りだしたルイズは独白となった話を勝手に進める。
「子供の頃からずっとそう。私が魔法を使おうとすれば必ず爆発する。何を唱えてもよ」
禊は応えない。ルイズは続ける。
「何度も何度も練習したし、せめて他のことはって、勉強も必死でして魔法学院でもトップクラスになったわ」
禊は応えない。ただ、その視線だけはルイズに向けた。ルイズは止まるタイミングを逸して、独りよがりに加速していく。
「でもどれだけ練習したって、勉強したってゼロはゼロ! どれだけいい成績を残したって、魔法が使えないメイジなんて、誰も認めてはくれないわ!」
加速は悲鳴のような叫びとなって、ルイズの魔法と同じように爆発した。もう自分でも止められない。
「あんたもそうなんでしょ! 心の中じゃわたしをゼロのルイズって馬鹿にしてるんでしょ! 何とか言いなさいよ!」
『どうして?』
そこでようやく球磨川が反応を示した。独白がキャッチボールとなる。
「どうしてって、どういう意味よ?」
『どうしてそんなに必死になっちゃってるんだい?』
「貴族にとってメイジの才能がないというのは、無能の烙印を押されているのと等しいの!」
無能故のゼロ。数え切れないだけの功績を積み重ねたところで、魔法が使えないというだけで全てがゼロとして扱われる。それがルイズの歩んできた人生だった。
『ルイズちゃんはそれでいいんだよ』
「いいわけないでしょうが!」
『そんなに落ち込まないで、元気を出して』
やっぱりこの使い魔も安い慰めの言葉をかけるだけなんだ。そんな諦観と、こんな奴にまで同情の念をかけれる自分が、どこまでも腹立たしい。
『プライドだけは一人前で、どんな魔法でも失敗させちゃって、普段は強気でもすぐに落ち込んじゃう。貴族としてもメイジとしても半人前の落ちこぼれ。ぜーんぶ中途半端な脆い女の子』
だけど。そう、だけど。
ルイズが禊を普通だと思ったのは、思えたのは、ほんの一瞬だけだった。
禊という使い魔は、ルイズがこれまで出会ってきた、どんな貴族とも平民とも違うのだから。
つかつかと、禊がルイズに近寄ってくる。
――何よ、これ?
罵詈雑言を浴びせながら、禊はそれらを全肯定する。
気持ち悪い。
空間が捩れ曲がるような気持ち悪さが、禊を中心に広がっていくのをルイズは感じた。
『でも、その弱い子がルイズちゃんだよ。それが、かけがえのない君の個性なんだから!』
もうこれは理屈ではなく、感覚的に禊が気持ち悪くてしょうがない。
目に映る姿も、聞こえてくる声も、肌にまとわり付いてくる気配も、あまねく全てがだ。
でも逃げられない。身体が言うことを聞かず、ガチガチと歯の根が合わない音だけが、ルイズの正気を保ってくれている。
ずいっと、禊はルイズに息がかかる距離まで近付いた。これまで感じたことのない気持ち悪さが、ルイズの身体を這いまわり、身体が震える。
『無理に変わろうとせず、自分らしさを誇りに思おう! 君は君のままでいいんだよ』
これは慰めなんかじゃない。そんなわけあるものか。
ルイズの善い部分と悪い部分、そのどちらも一緒くたに混ぜられて、全部を台なしにされた。
ルイズは堕とされている。その心を、禊という負の塊に魅入られて穢されていた。
「うるさい」
ルイズは、自分の心が悲鳴を上げる音を聞いた。
否定の言葉。そんなのはいつものことだった。キュルケや他の生徒達。自分を馬鹿にする者をルイズは常に否定し続けてきた。
それらは全てゼロという名を否定。
でも違う。これは……これだけは違う。
ルイズが今否定しているものは球磨川禊という存在そのものだ。
「うるさい! うるさい! うるさい! うるさい! うるさい! うるさい! うるさい! うるさい! うるさい! うるさい! うるさい! うるさい!」
怒りではなく恐怖。
固まるのではなく凍える。
投げ出したいのではなく、逃げ出したい。
――助けて、誰か助けて。お父様お母様エレオノール姉様ちい姉様オールド・オスマンミスタ・コルベールミス・シュヴルーズキュルケもう誰でもいい。誰でもいいから助けて。
心からの拒絶。全身全霊の悲鳴。
「こっちに来ないで! わたしに触れないで!」
――お願いだから、これ以上、わたしの心を穢さないで。
恐い。怖い。こわい。こわいこわいこわいこわいこわい。
「あんたはわたしの使い魔なんかじゃない! あんたはわたしが召喚に失敗して、たまたまそこら辺にいた平民を連れてきただけよ!」
もう貴族としてのプライドなんてなかった。何でもいいから、禊をなかったことにしたかった。使い魔なんていないことにしたかった。現実をなかったことにしたかった。
気が付けば走っていた。どこにも向かってない。離れたいだけだったから。走れたことを心から喜んだ。
でも。
でも、聞こえてしまった。聞かされてしまった。走る出す前の、最後の言葉。
『現実さえなかったことにして逃げる。そんな君の無能を受け入れればいいのさ。そうすれば君は……』
思い出したくない。聞きたくない。消えろ記憶から消えてしまえ。思えば思う程に、その言葉はルイズを支配する。
色濃く、真っ暗に、ルイズの心を塗り潰す。
『過負荷と同じになれる』
自分から逃げ去ってしまったルイズの背を見送り、禊はポリポリと頭髪を掻いた。
『ちょーっと、やり過ぎちゃったかな?』
最近の相手は異能集団の異常だったり、挫折をしない特別だったり、頑張っちゃった善吉ちゃんだったりで、禊は精神負荷への力加減が鈍っていたのかもしれない。
『ん。まあ、いっか』
禊は己が所持する凶悪な能力さえ、これまでほとんどノリでしか使って来なかった根っからの過負荷だ。ルイズを追い詰めすぎた失敗についても、ろくな反省などするわけがない。
それにもし彼女が真に無能なら、このままルイズに付き添っていれば後は勝手に過負荷へと転がってくるだろう。そういう思いもある。
禊が喚ばれたことに意味があるとするなら、それはルイズを過負荷側に引き込むためだろうと、禊はなんとなく解釈していた。ルイズが禊の味方になれば、帰る方法も積極的に探してくれるに違いない。
そういう計算をしながら、禊は残りの片付けを一人で済ましていく。失敗の後始末なら、それがどんな内容であれ慣れたものだ。誰も注目してないので、能力は使わない。
教室が元通りになった頃には、昼休みの時間となっていた。
『お昼ご飯は……ありそうもないな』
別に食べなくても体調面は困らないのだけど、食べられるなら食べておきたい。考えた末に、禊は一人で食堂へと赴いてみることにした。
素直な気持ちで昼食を分けて欲しいと言えば、きっと貴族の人達は食べ物を差し出してくれるよね。という言葉の意味が何重にもかかっていそうな思惑を持ちながら。
●
シエスタが昼の仕事に勤しんでいる最中、食堂近くの廊下にて今日の朝と同じ黒い背中を見つけた。
「あ、禊さん」
『やあ、シエスタちゃん。朝ぶりだね』
その朝方が初対面だったというのに、もう長年の友人みたいな気軽さで、禊はシエスタに手を振る。そんな気安さがシエスタにはどことなく嬉しくもあり、すっと禊に並んだ。
「ええ、禊さんは今から昼食ですか?」
『そうしたいのは山々なんだけど、ご主人様がご機嫌斜めでね。どうせ準備もされてないだろうから、昼食を食べる貴族様を至近距離から指を咥えて見てよーかなっと』
「そんなことしたら、貴族様から怒られるではすみませんわ!」
どんな物乞いだ。しかも、それをあえてやる意味はどこにあるのだろう。
今朝からの付き合いでしかないが、シエスタは禊から独特な言動や雰囲気を感じ取っていた。
『案外腹ペコの平民を哀れんで、食べ物と全財産を差し出してくれるかも』
禊が言っているのはただのジョークだとわかる。だが、変わり者の禊は貴族に対する畏怖が、とりわけ薄い気がした。
「それはないと思います……。冗談でも貴族様を相手にそんなこと言うなんて、禊さんは勇気ありますわね」
シエスタが怒られている時だってそうだった。禊はとばっちりを恐れて逃げたり、嵐が去るのを待って萎縮するわけでもなく、じっとこちらのやり取りを見ているだけ。
貴族の恐ろしさを知るシエスタは、それを薄情だとはまるで思わなかったけれど、怒っている貴族を前にどうして平然としていられるのだろうか? と、そういう疑問は残っていた。
『いやあ、それ程でも』
褒めているわけじゃあないのだけど……。まかり間違って実行されたらどうしようとも思うし、食事がなくて困っているのは事実だろうと、シエスタは禊に提案を出す。
「よろしかったら、一緒にいらっしゃいませんか? 私達が食べている賄い食ならありますから」
『今朝出会ったばかりの僕にそこまでしてくれるなんて、シエスタちゃんはいい子だね。がっつくようで悪いけど、遠慮なくいただくよ』
「平民が一致団結して助け合うのは当然です。それでは、こちらにいらしてください」
シエスタは屈託のない笑顔で、禊を誘導していった。通されたのは食堂の裏側にある厨房だ。そこにある椅子に禊は座らされて、シエスタがシチューを持ってきてくれた。
「貴族の方々にお出ししている昼食の、余り物で作ったシチューですが……」
『ありがとう! 昨日召喚されてから初めてのまともな食事だから、たぶん何でも美味しく感じるけど、きっとこれは特に美味しいよ』
それは褒めてませんよね、などと思うのだけど禊が嬉しそうに食べ始めていたし、シエスタは前向きによしとしておく。
それより、シエスタには他に気になったことがあった。
「昨日から何も食べていないのですか!?」
『正確には、朝スープとちんまいパンは貰ったかな』
「それではとても足りないでしょう。おかわりもありますから、遠慮なく言ってください」
いきなり召喚されて使い魔にされ、ろくに食事も与えられない。それはシエスタだけでなく、ここの食堂にいる者達を同情させるには十分だったようだ。
「やっぱり貴族ってのは、どうしようもない連中ばかりだな!」
『おろろ? この人は誰かな?』
「この方は食堂の料理長でマルトーさんです。それで、こちらが昨日ミス・ヴァリエールに召喚された使い魔のミソギさん」
「やっぱりお前が例の不幸な使い魔だったか。災難だったなあ」
たまたま通りかかってこちらの話が聞こえたのだろう。
マルトーが禊の背を大げさに叩くが、禊はそれを気にせずシチューを食べながら話を続ける。
『エリートに迫害されるのは、息をするのと似たようなものですから』
「お前は前いた場所でも貴族の被害を受けてたのか、本当になんて奴らだ! 俺じゃあ食事くらいしか面倒は見てやれないが、食べる物に困ったらいつでも来な!」
『マルトーさんはわざわざ貴族の生産場みたいな学院で働いてるのに、わかりやすく貴族嫌いなんですね』
初対面で、しかも食事を恵んでもらっている相手とは思えないような軽い口調でクリティカルな話題を出されたのだが、マルトーはさして気にした風もない。
「ここの学園長に誘われたんだよ。あの人は貴族じゃ珍しく、貴族と平民をあまり差別しない人でな。そこが気に入ったんだ」
『へえ。それは僕も機会があれば、一度ご挨拶しておきたいな』
「おう、きっとお前も気にいるだろうぜ。それじゃあ俺はまだ仕事中なんでな。お前はゆっくり食べていけよ」
軽く挨拶をしてマルトーはまた厨房へと戻っていった。シエスタは禊と対面の椅子に腰掛けており、動く気配はない。禊の食事が終わるまで、付き添うつもりなのだ。
『どうしたの、シエスタちゃん。僕の顔、シチュー塗れにでもなってる?』
「いえ……。その、禊さんは何ていうか、どこかわたし達と違うなと思ったのです」
『きっとそれは、僕が過負荷だからね』
「マイナス?」
聞き覚えのない単語に、シエスタの返事はオウム返しになった。禊は咥えていたスプーンを縦に持ちくるくると回して、簡潔に説明を付属させる。
『人生の負け組だよ。僕達過負荷は常に劣等感に満ちていて、人に道を譲られて生きてきた』
「えーと……すみません。わたしあまり頭がよくないので、ミソギさんが何をおっしゃりたいのか、今ひとつわかりかねますわ」
どうも禊の話す内容は、シエスタには解釈の難しいものだった。シエスタが言葉遊びに慣れていないのもあるし、それ以前に話が要領を得ないというのもある。
『ベタな修飾を外して言うと、よくあるただの虐められっ子さ』
「私にはそう見えませんけど。禊さんはお話をしてると面白いし、苛められるような酷い人だとは思えません」
『シエスタちゃんだってそうだろう? いい子だけど、貴族達に虐められていたじゃないか』
「あれは、わたしが粗相してしまいましたから。それに貴族様と平民じゃ、住む世界が違いますわ」
シエスタにとって、貴族と平民の間にあるものは差別というより差異に近い。平民は貴族に奉仕して生活の糧を得るものだと教えられて育ってきた。それがシエスタにとっての常識なのだ。
『その考え、不幸の境遇を受け入れてしまう思考が、過負荷の第一歩なのさ』
禊のそれは小さくポツリと呟いた程度で、シエスタにまで届きはしなかった。
「あの、今何て?」
『女の子にここまで優しい言葉をかけてもらったのは、生涯初めての経験だなってね。あ、おかわりもらえるかな』
それからは禊が食事を終えるまで、二人は取り留めもない話をして過ごした。話をすればするだけ禊は普通とは違う考え方をしているなとシエスタは思ったが、その物珍しさはシエスタを楽しませるのに十分だった。
『ごちそうさまでした。さて、シエスタちゃんには助けてもらいっぱなしだし、ここで一つ何か恩返しがしたいんだけど、いいかな? 僕は死んだお爺ちゃんの遺言で、助けられたら千倍返ししろと教えられてるんだ』
「恩返しだなんて、気になさらないでください」
『平民は助け合いだと言ったのはシエスタちゃんだぜ? だから何か手伝えることはないかい? できればあっちの食堂関連で』
どうして食堂に絞ったのかはわからない。しかしシエスタは丁度食後のデザートを貴族達に運ぶ予定だったので、それを手伝ってもらうことにする。
「なら、デザートを運ぶのを手伝ってくださいな」
『お任せだよシエスタちゃん。僕は前世でパティシエの料理を運ぶ係だったような気がする』
「うふふ。それでは行きましょう」
本当にユニークで面白い人だなと思いながら、シエスタは禊と共に、ケーキを載せたトレイをワゴンに乗せて食堂へと向かった。