鏡がその美しさに絵を描き出した花畑は、庭師の男ジャンが手間ひまをかけて手入れしている。そして彼こそが、エミリアの恋愛対象となっている相手だった。だからエミリアは、鏡の絵が庭に咲いている花達だとすぐに感付くことができたのである。
 ちなみに、重要な趣味に関してはひた隠しにしていて、打ち明ける予定は今のところない。
 今日はエミリアの教導が終わった後、二人でデートする約束をしていた。その時間の確認を、エミリアは教導前にとろうと思っている。
 エミリアが教導でミゲルの屋敷に訪れる時、ジャンはだいたい庭で手入れをしており、彼女達のファーストコンタクトもそこだった。しかし今日に限って、庭にジャンの姿がない。
 約束を忘れて休暇でもとったのだろうかとも思ったが、あの生真面目なジャンに限ってそれはないだろうとすぐに思い直す。そうなると今度は、何の連絡もないジャンに何か良くない事が起きたのかと心配になってきた。
 ジャンには魔法の才能がないし、何らかの事件に巻き込まれれば抵抗は難しい。エミリアは自分のネガティブ思考を払拭するためにも、通りすがった屋敷にいるメイドや執事達に、ジャンの動向について質問していく。すると、何人かが朝にジャンの働く姿を確認していると証言しており、どうやら自分の杞憂だったらしいと判断する。きっと今日はたまたま別の場所で作業をしているのだろう。
 そこでようやくエミリアの不安は霧散し、彼女は鏡の教導へと向かった。
 鏡への指導はいつも通りに問題なく進んだ。それどころか、鏡の優秀さから時間よりも幾らか早く、本日の目標地点に達している。数日後行う予定のミゲルへの定期報告も吉報が届けられそうだと、エミリアはご満悦だ。
 余った時間はいつかの約束に従い、鏡とある意味自分へのご褒美にあてがわれることとなった。
「本当、鏡ちゃんは黒いゴスロリが良く似合いますね」
「僕もこの服大好きだよ」
「鏡ちゃん、この服の時は」
「ごめんなさい先生、私もこの可愛いお洋服大好き」
 女装しているときは言葉遣いまで女の子になりきること、それが二人の約束だ。謝りながらも鏡の表情は微笑んだまま。その喜びようが、またエミリアの心をくすぐる。
「そうだ先生、この前のお花畑完成したんだよ!」
「本当ですか。それは是非見てみたいです」
 そう言いつつエミリアは部屋を見渡すが、絵はどこにもない。何やら自信満々なので、部屋のどこかに飾っているのかと思ったが違うようだ。
「こっちだよ!」
「え? あ、コラ! 鏡ちゃん!」
 鏡は“女の子”のままで、エミリアを急かすように扉を開け走り出した。
 これに焦ったのはエミリアだ。あの服装を誰かに見られたら色々と不味い、というか最悪首がとぶ。連鎖的にそのままジャンとの関係さえ壊れかねない。
 不味い不味い不味いですよ!
 エミリアも軽くパニックになりつつ、すぐに鏡を追いかける。
 ご褒美は他の誰にも内緒がもう一つの大事な約束だった。こっちは今まで一度も破ったことがなかったのだが、そんなことも忘れるくらい興奮しているのだろう。
 鏡が向かったのは地下室だった。エミリアも後に続き、地下に続く階段を下りて中へと進入する。
 幸い今のところは誰にも見つかっていない。教導の時間もそろそろ終わるし、絵を見たらすぐ部屋に戻ろう。
 それにしても、どうしてこんなところに絵があるのでしょう?
 前にたまたま話を聞いた時、ここは物置でほとんど使用していないと聞いた。しかも酷く寒い。
 辺りから停滞している魔力の残滓を感じるし、おそらく鏡君が物質変換を使用して凍結系の魔法を……え?
 そこでエミリアは思考を止めた。いや、目前の光景が理解できずに強制停止させられたという方が正しいか。
「練習の少し前に形になったの。まずは先生に見てほしかったんだ。綺麗でしょ? 私の“お花畑”」
「う……あ……あぁ…………」
 しかし時間が経てば嫌でも頭は再び回りだし、目の前のそれを解析しだす。同時にエミリアは全力で解析結果を否定しにかかった。
 鏡はそんなエミリアの心情など全く知らずに、いつの間にかエミリアの隣の立っている。さらに手を繋ぎながら少し興奮気味に自分の作品を紹介し始めた。
 だって、そんなわけはないじゃないですか。ジャンは今日私と映画を観に行って、夕食も高いレストランを予約しているのに。
 朝はメイドの人達が元気に仕事してたって。練習の少し前……? そんな、まさか、じゃあ私がジャンを探している時にジャンはここでば……あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!
「まだ小さいけどって、先生どっち見てるの? そっちは余ったモノを片付ける時間がなくて置いてるだけだよ。大事なのはこっち」
 少し怒ったように鏡はエミリアの見つめている“モノ”とは別の場所を指指す。
 そこにあるのはレンガの囲いと土、そして四輪の花。
「皆に内緒でこれ作るの大変だったんだ。それにまだ花の数も少ないの。もっと大きな花壇を作って、もっともっとお花を増やして、お父さんやお母さんにも見てもらうんだ!」
 鏡は本当に嬉しそうに無垢な笑顔をエミリアへと向ける。
「どうしてジャンを……?」
 か細い、今にも消え入ってしまいそうな掠れた声で、エミリアは鏡に問いかけた。
「ああ、庭師さんは私が綺麗だと思った庭のお花畑を作った人だから、こっちのお花畑の“お手伝い”もしてもらったんだ。そんなことより、ねぇ綺麗でしょお花畑。何か言ってよぉー!」
「そんなこと、そんなことのために、ジャンを殺したの?」
 半狂乱になっていたエミリアだが、自分の言葉によって急速に思考が温度を失うように動き出す。それは魔導師として戦う力を所有する者の思考。
 この子は悪魔だ。天使の微笑を持った悪魔。殺さないと。今すぐに。今殺しておかないと、この子は将来何をしでかすかわからない。
 鏡君に善悪なんてないんだ。ただただ自分の欲求を満たすためだけに人を殺せる。自分の快楽を優先して、人を殺す狂人。
 鏡の感性は、決してエミリアに許容してコントロールが可能なレベルではなかった。エミリアが出来ることは、この悪魔がこれ以上犠牲者を増やさないようにすること。それだけだ。
 目の前に愛する人が凄惨を極める姿になっていても、こう考えることができる。それだけでも、彼女の精神力は相当なものだろう。
「もう、いいよ。せっかく頑張ったのに」
 だが、彼女は遅すぎた。
「最後に、先生もお花畑作るのに協力してね」
 とっくに悪魔は牙をエミリアへと向けていたのに。ジャンの亡骸に心奪われていたエミリアは、それに気付けなかった。
「うぐっ!」
 動かない。鏡に掴まれた右手が凍りつくように冷たい。急速に腕の熱が奪われ、冷気は即座に痛みへと変わる。
「それじゃ、バイバイ先生。綺麗に咲かせてあげるからね」
 鏡は待機状態にしていたデバイスを右手に展開した。見掛けはそんなに珍しくもない標準的なストレージデバイスであり、先端には魔力の刃が薄暗い部屋の中で、己の力を主張するように光る。
「ひぁがっ!」
 エミリアは反射的に恐怖の叫び声をあげようとするも、先に鏡の飛びつきながら伸ばした手が、エミリアの喉を掴む。
 腕を掴まれた時よりも急速に氷結化され喉は、本来持っているはずの発声機能を奪われる。
 手を離されるとエミリアは倒れるように転倒し、腕と喉の激痛に、その場で転げまわった。
「暴れると、お花が作れないよ」
 鏡が暴れるエミリアを押さえつけるために頭を踏みつける。
 肉と床がぶつかる鈍い音が地下室に響き、鼻の軟骨が潰れ赤い血溜りが広がった。
 鏡から逃げようと必死に顔を上げた所にもう一撃。硬いコンクリートの地面に顔が激突することになり、逃避行動は却ってダメージを倍化させてしまう。脳が揺さぶられ意識が飛び、結果的に静かにはなったが。
 鏡は一度満足げに頷いてから、新たな花の作成に乗り出す。数十分後、花壇には新たな花が植えられていた。