放たれろっ・・・!

 飛散しろっ。

 赤木しげる・・・!

 その日、一人の男が死に、一つの伝説が終わった。

 気持ちの良い風に乗って、飛び散っていく意識。

 赤木しげるという存在を形作っていたもの。

 肉体ではない、意義、意味、意識。そういったものだ。

 その散り散りになったもの――魂と呼ぶべきものが、暫く自由に飛び回った後、再び集約していく。

 浅い眠りから意識が浮上するように、赤木はいつしかそこに立っていた。

 和の内装で、豪奢な神殿を思わせる館の中。

 自分の意識がはっきりしていることを自覚した赤木は周囲を見回す。

 そこでふと違和感があったのだが、今はそれよりここが何処であるかだ。

「どこだ、ここは……?」

 赤木の前後に人が立っている。その先もずっと人、人、人。

 整然と人が並び立つ列の中にいた。

 並ぶ者達はほとんどが白装束を着ていて、不安気で沈痛な面持ちをしている。

「辛気臭え連中だな……」

 そんな中、赤木は着慣れたスーツ姿だった。

 そう、これは自分の通夜、最期の夜に着ていたものと同じ服である。

 意識もちゃんとある。

 俺は俺。赤木しげるであると認識できていた。

 むしろ今の方が、意識ははっきりしている。

 薄皮を剥ぐように、日一日失われてきた記憶さえ、鮮明に思い出せるのだ。

 あれ程にやり込んだのにも関わらず、通夜で蘇我にわからないと告げた麻雀のルールも……。

 アルツハイマーによって脳が破壊されて消失したはずの記憶が蘇っている。

 そこで違和感の正体にも気付いた。

 視野が広い。

 左の三分の一、飛んでいた視界が今は戻っている。

「もしや、ここがあの世ってヤツか」

 死んだ脳細胞が蘇るなど、本来あり得ない……絶無の出来事。

 そして赤木自身にマーシトロンのスイッチを押して、確かに自殺した記憶があるのだ。

 ならばここはもう現世ではない。黄泉の国だ。

「しかし、長い列だな」

 長い列の先頭には大きな扉があった。どうやら中へ入るための順番待ちをしているらしい。

「暫く中へ入れそうねえ」

 早速呆けて突っ立っているだけな状況に飽きがきた赤木は、無造作に懐から煙草を取り出し火を付けた。

 それに気付いた背後の男が、慌てて赤木を止める。

「駄目だよ! そんなことしちゃ……!」

「あ? あの世ってのは禁煙か?」

「そういう問題じゃないよ! 鬼様が見てるんだから!」

「あ? 鬼だ?」

「そうだよ、亡者達はこれから裁かれるの。これはその列」

 死んだのだからここでは皆、亡者。

 やはりここはあの世に違いないようだと、赤木は自分の見立てが正しかったのだと知る。

「ふーん」

「ふーんって……!」

 だが、そんなもの赤木の知ったことではない。

 吸いたいから吸う。それだけ。

 深夜、板前にふぐ刺しを無理言って作らせた上、一切れしか食べない男なのだ。基本、傍若無人な自由人である。

「そもそも、前提がおかしいだろ」

「何が?」

「こういう時、裁くってなら生前の罪だろ。今、何をしようが関係ねえし、変わらねえ」

「変わらないって……あるでしょ、普通。反省の態度とか、そういうの」

 周囲の視線が赤木に集まってくる。

 何なんだこいつ、という視線だ。

 どうやら、ほとんどの者は裁かれる恐怖によって意気消沈しているようだった。

 人間には誰しも生前の罪ある。生きているのだから当然。思い当たるものがある。

 それをこれから裁かれて、天国行きか地獄行きが決まってしまう。

 皆、そのことへの恐怖と不安で頭がいっぱいなのだ。

 しかし赤木しげるは違った。

 まるでそんなもの気にしてない。

「興味ねえな。現世で好き勝手やってきたんだ。今更オタオタしてどうする?」

「え? そ、そうかもしれないけど……」

 ここで行儀よくしたところで、減刑されるとは思わないし、仮に減刑されるとしても赤木の態度は変わらない。

 自分が生きてきた結果だ。誰に裁かれようとも関係ない。

 赤木しげるは赤木しげるとして生きてきた。一番大事なのはそこなのだ。

 バカは死ななきゃ治らねえと生前に赤木は言ったが、一度死んでも変わらない。

 しかし、それは生きることに一切妥協の無かった赤木しげるだから言えること。

 普通の人間はそんな風には割り切れない。

 窮する。だって死んでるから……!

「それに……ひっ! 来た!」

「私語を慎め亡者共!」

 赤木達を怒鳴ったのは、和装に身を包んだ男だった。

 しかし皮膚は赤く、頭には二本の角が生えて、巨大な金棒を手にしている。

 体と武器は典型的鬼の特徴。

「すみません……! すみません……!」

 ひたすらに頭を下げ続ける男とは対象的に、赤木は興味深げに男を見ている。

「ほお、これが鬼ってヤツか」

「獄卒だ。不届きな亡者め!」

 獄卒とは地獄の中でも亡者を苛む役を持った者達。

 裁判待ちの見張り役として監視しているのだった。

「落ちたいか、地獄へ……! 裁判を待たず!」

 赤木と話していた亡者は顔を青くしてペコペコと何度も頭を垂れる。

「滅相もございません! 何卒! お許しください!」

 そんな亡者と鬼のやり取りを、赤木は当事者でありながら映画でも観るような調子で鑑賞している。

 自分がこの状況を作った元凶であることなど、まるで考えてもない様子だった。

 これには獄卒も更に激怒する。

「特に貴様だ! 神聖な裁判所で煙草だと!」

「ああ、丁度よかった。灰皿はあるか?」

「愚か者がっ! 狼藉として閻魔様に報告する。名乗れ、名を!」

 ふーっと紫煙を吹き出してから、赤木は何の躊躇いもなく名乗る。

「赤木しげる……」

「赤木……しげる……! だと!」

 赤木からすれば求められたから答えただけ。

 しかし獄卒の反応はあからさまに大仰だった。

「こいつが……あの……」

「何だ? 大げさだな」

 裏社会ではその実力と人を引きつける独特な魅力から、それなりに顔の広い赤木だが、流石にあの世での知り合いは先に逝った者達ぐらいしかないだろう。

 少なくとも獄卒が仰天する理由は思い当たらなかった。

「何かあったのですか、先輩」

「何かもクソもあるか! 急いで灰皿を持ってこい!」

「え? は、はい!」

 偶々近くを通りかかった若い獄卒に怒鳴るよう命じると、駆け足で数分とかからず戻ってきた。

「休憩室のこれしか……」

「構わん、寄越せ」

 獄卒はそれをぶん取るように奪って、そのまま赤木に渡す。

「ほら、これを持って付いてこい」

「ありがとよ。列待ちはいいのか?」

「お前は特別だ」

 どうやら何かしら訳ありなのは間違いないようだ。

 どこか粗雑さはあるものの、亡者相手ではあり得ない高待遇なのはわかる。

 それに、このままここでひたすら順番を待っているよりは、ずっと建設的であると思えた。

「あの、この人だけどうして……」

「そうですよ先輩、勝手なことをしたら閻魔様に」

「うるさいわ! 貴様らは黙ってろ!」

「ひぃ……!」

「すみません……!」

 わけもわからず質問する亡者と新人を理不尽に一喝して、獄卒は赤木を先導するように歩き出した。

 進行方向は列の向かう先と同様だ。

「フフ……」

「あ? なんだ?」

「気にするな。ただの思い出し笑いさ」

 猜疑の目を向ける獄卒に赤木は軽い調子で答えた。

 こうして灰皿を持って歩いているとつい思い出す。あの日の夜を……。

「どうした? 騒がしかったが、その亡者が何かしでかしたのか?」

 門前までくると、門番として立っていたまた別の獄卒が話しかけてきた。

 さっきのいざこざの一部始終も見ていたらしい。

「コイツは例の赤木しげるだ……」

「何……! コイツがか!」

 この獄卒も赤木しげるの名を聞くや否や血相を変えた。

 相当に特殊な事情が絡んでいるらしい。

 丁度そのタイミングで門が開いた。

「次の亡者を」

「次はこの男、赤木しげるだ」

「赤木……! あの赤木しげるか」

「その通りだ」

「わかった……通れ」

 獄卒達の短いやり取りを経て、赤木は門の向こうへと通された。

 そこは大広間に繋がっていた。

 部屋の中を歩き回っていたり、左右に設置された机と椅子に座っている者もいて、人数は扉の前よりもずっと増えている。

 赤木は真っ直ぐと案内された道を進む。

 その最奥にあるのは巨大で豪奢な机。そしてそこに座っているのも一際巨体で赤い肌。

 頭には王と書かれた黒い帽子を被っている。

「その出で立ちで鬼共のボス……。つまりあんたが閻魔って言うのだろう」

「口を慎まんか!」

 赤木を連れてきた獄卒は赤木の態度を批難しても、閻魔であることは否定しなかった。つまり当たりなのだろう。

「何だこの者は。順番が違うだろう」

「はっ! 申し訳ありません。しかし……」

「しかし、何だ?」

 新人や亡者には滅法強かった獄卒も、閻魔大王の前ではしきりに畏まるしかない。

 しかし同時に、ハッキリと告げるべきは告げる。

「この者は例の赤木しげるです……!」

「何じゃと……」

「閻魔様に急ぎお伝えするため、特別に連れて参りました」

 獄卒の報告を聞いて、全てを承知したように閻魔は深く頷いた。

「そうか……この男が……」

「おいおい何だ、さっきから。俺を放っといて勝手に納得しやがって……」

 たとえ閻魔の前でも、赤木の態度は当然のように変わらない。

 生来の不遜さで閻魔の巨体を見上げている。

「本来、亡者はここで裁かれた後、生前の記憶を失いそれぞれの罪によって様々な地獄に落とされる」

 閻魔は、赤木の言葉を無視して地獄のシステムを語りだした。

「しかし赤木しげる……お前は特別だ」

「だから、何だ。その特別ってのは。なぜ俺だけ扱いが違う」

 理解を許さぬまま話を勝手に進められて、赤木は目に見えて機嫌が悪い。

 それでも閻魔は沙汰を下す。

「この者を衆合地獄の針山へと連れて行け」

「やはり、あそこへ……」

 獄卒はこの展開をわかっていたらしく、深い追求はしない。

 そこでようやく閻魔は赤木に話しかける。

「赤木しげる……そこへ行けば、貴様がここに連れてこられたわけも理解できる」

「中身は行ってのお楽しみか?」

「そうだ。しかし、そこにはお前の最も望むものがあると保証しておいてやる」

「ほう……。フー……」

 最後に煙草の煙を吹き出すと、灰皿に押し付けて火を消す。

 そして灰皿を獄卒に押し付けるように返却した。

「なら行ってみるか」

 赤木が心から最も欲するもの。そんなのは一つしかない。

 灰皿を受け取った獄卒は文句の一つもなく閻魔の命に従い、赤木の案内人となって裁判所の出口を指し示して進み出す。

「こっちだ……」

 閻魔は裁判長役の机に座ったまま二人を見送った。

 そして机に置いていた手鏡を手に取る。

 それは浄玻璃じょうはりの鏡と呼ばれる、亡者の生前犯した罪を映し出す特別なもの。

 しかし鏡には罅が入って割れてしまっていて、もう使い物にならない。

「頼んだぞ、赤木しげる……この地獄をあるべき姿に戻せるのは、もはやお前しか居らぬのだ……」

 それは願いだった。

 切実にして縋るような、心からの願い。

「仏陀様でも、あの男には敵わない……」

 一九九九年、九月二十六日。

 享年五十三歳、赤木しげる――永眠。

 そして次の戦いの場へ。


バカは死ななきゃ治らないけど、

赤木しげるは死んでも変わらない。

アカギ短編小説『地獄変相 後編』

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