いつからこうなってしまったのだろう。
思い出せない。
けれど、多分思い出す必要もない。
きっかけは憶えている。
忘れるわけがない。それは大事な、とても大事なあたしの想い出だから。
あの日。まだ女子も男子も関係なく走り回って遊んでいた頃。
あたしは男子に混ざってルールも曖昧なままに、サッカーボールを追いかけていた。
ただボールに触れているだけで楽しかったけど、だからだろう、あたしは周りをよく見ずに転んでひざを擦りむいてしまった。
すぐ立とうとしたけどズキンとした痛みで、思わずあたしは足を引きずるように歩く。溢れる赤い傷に砂利が混ざった膝。痛くて痛くて、今にも泣き出したかった。
昔から生傷は絶えないほうだったと思う。
今は弟達の面倒を見るために絆創膏をいつも持っているけど、昔はそんな用意もなかったんだよね。
そこで、試合を見学しているだけだったれいかがわたしに走りよってきて、傷を洗って絆創膏を貼ってくれた。
れいかの前では強がって痛くない振りをして、涙は堪えているつもりだった。
でも、どうしてだろう。
「もう大丈夫。よく、痛いのを我慢したわね。なおは強い子」
そう言って、れいかがあたしの頭を撫でてくれた。
れいかの優しい笑みと、同じくらいに優しい感触。
痛みはもう感じていなかった。
その安心感に、一筋だけ涙がこぼれて。
きらきらとした光が反射する視界の中で、れいかは輝いていた。
それからも、あたしが怪我するたびにれいかが手当てをしてくれた。
前よりもあたし達は一緒にいることが多くなったと思う。あたしはそれが嬉しかった。
あの手の感触が欲しかった。
あたしに向けてくれる笑顔は、あたしだけの特別だった。
誰がなんと言おうとも、れいかがあたしを治療してくれている間は、あたし達二人だけの時間なんだ。
誰も入り込めない、あたし達の世界。
●
れいかがあたしの治療をしてくれていたのは、小学校の間だけだった。
サッカー部で活動するようになって、れいかがそばにいてくれる時間は減ったから。
寂しいけれど、それは仕方のないことだ。
無理にサッカー部のマネージャーに誘うことはできなかったし、れいかは弓道部や生徒会の仕事で忙しくなっていた。
れいかの邪魔をしちゃいけない。そう思ってあきらめていた。
そんな日常にも慣れてしまっていて、あたしは小さな傷くらいなら放っておくようになっていた。
サッカー部にいると、この程度の怪我はいつものことだしね。
「お待たせれいか」
あたしが来るのをれいかは教室で待っていてくれて、優しく迎えてくれたけど、その顔はすぐに曇った。
「その怪我は部活で?」
「ああこれ? なんてことないかすり傷だよ」
実際なんてことないのだけど、改めてみると傷口に薄い赤が滲みだしていた。
「放っては駄目、傷が残ってしまうかもしれないわ」
「えー、れいかは大袈裟だよ」
こんなの、数日経てばすぐに元通りになるだろう。あたしはわかっていても、れいかが許してくれなかった。
「さあ、座って」
「はーい」
れいかの対面になる椅子を引かれて、あたしは大人しくそこに座る。
「もう、こんなにきれいな肌をしているのに」
れいかの方が白くて、あたしよりずっと美しい肌だよ。流石キュアビューティー。その白い指が傷口の周りを撫でた。その感触にあたしの心が激しく反応して、血が全身を駆け巡る。
「なお、大丈夫?」
「ひ、ひゃい!?」
自分のことながら全然大丈夫じゃない返事だよ。ちょっと恥ずかしかったし。
「顔が真っ赤になってるから」
「大丈夫だよ!」
全力で言い切ることでさらに怪しさが増した。血液の循環がバッチリ過ぎて、傷口から血が吹き出さないのが不思議なくらい。
「これで大丈夫」
「あ、ありが……」
その瞬間、ドキドキしてるあたしの鼓動が一際高く跳ねた。
だって、だって――まるで夢の映像が現実に重なるように、れいかの微笑みが、あの日のれいかとダブって映ったから。
あの日の記憶が呼び覚まされて、けれど、あの日の記憶より鮮明に感じてる。
「それでは、遅くなる前に帰りましょうか」
「う、うん」
かろうじて、それだけを返すことができた。
あたしとれいかだけの世界。
急に浮上してきた想いが、あたしの中でぐるぐると回っている。
どうすればいいかわからなかった。けど、どうしたいかはすぐに出た。出てしまったというべきなのだろうけど。
今日を境に、あたしはよく怪我をするようになった。
怪我をしては、れいかに治療をしてもらう。怪我のほとんどはわざとだった
最近怪我が多いとたしなめられても、あたしはまた繰り返してしまう。
求めてしまう。
アカンベェとの戦いでさえ怪我をした時は、自分でも少しやり過ぎたと反省もしたけれど、それもれいかの笑顔ですぐに途切れて消え失せた。
ビューティーとして戦っている時はあんなにも強い冷気を発しているのに、青木れいかとして触れる手はこんなにも暖かい。
れいかがここにいるから。
家では弟達の世話を焼くお姉ちゃん。
学校では、サッカー部のエースと呼ばれて皆から期待の眼差しを受ける。
れいかは、世界でたった一人、あたしを甘えさせてくれた。
危険だとわかっていても怪我をする理由はそれだけで、その心があたしの全てだった。
それは間違いだと誰かに怒られたとしても、真っ直ぐにれいかを望む心は止められない。
れいかがあたしを見てくれるから。
れいかがあたしに触れてくれるから。
れいかがあたしを想ってくれるから。
れいかが、あたしを愛してくれるから。
●
別に、わたし達の間に何があったというわけじゃなかった。
ただ自分達のやりたいことと、やるべきことの積み重ねが、少しずつわたし達の距離を開けていっただけ。
仕方ないことと、そうあきらめられてしまうくらいに、ゆっくりと。
離れても気持ちは通い合っているからなんて、一方通行の勝手な信頼で自分を納得させていた。
時折、時間が合った日だけ一緒に帰るだけでわたしは満足していたのでしょう。
だから、久しぶりに怪我をしたなおを見た時はひどく懐かしくて、思わず無理矢理にでも治療をしてしまった。
大した怪我じゃないのはわかっていたのに、椅子に座らせて無意識のうちに昔を繰り返そうと……。
その時、わたしはようやく自分のホントウに気付いた。
心のどこかで不安だったのに、わたしはその気持ちをごまかして生きていたのだと。
もう自分はなおに必要ない人間なのではないかと。
なおにはたくさんの友達がいる。なおを慕う後輩も数え切れない。
わたしは、わたしだけのわがままで、なおを自分に縛り付けているのではとずっと不安だった。
そんな心があったから、あの日々を焼き直して、わたしはなおに必要な存在なのだと自分に言い聞かせようとしていた。
そもそも、あの日だって今と似たようなことだったのに。
なおがサッカーを大好きになってからは、わたしはいつも、なおがが走り回る姿を見ているだけしかできなかった。
頑張っているなおの姿を見守るのは楽しいけれど、その輪に入れないのは少し寂しい。
だから、わたしにも何かできることが欲しくて探した。
それが、よく怪我をするなおの手当をすることだった。ただそれだけ。
全部自分のため。
そんな自分が嫌になる。
もう無理になおを自分に繋ぎ止めるのはやめよう。そう思った。
思ったのに――なおは次の日も、怪我をしてわたしの前にやって来た。
照れ笑いを浮かべながら、「今日もやっちゃった」と言って。
わたしは「しょうがないわね」と言って、なおの怪我を治療した。
次も。
また次も。
なおは怪我をして現れる。
擦りむいちゃったと言っているけど、そうは見えない傷もあった。
わたしに治療して欲しくて、なおはわざと怪我をしているのだとすぐに気がついたけど、わたしはそれを止めることはできない。
心配だし、なおの肌に傷が残るのは嫌なのは嘘じゃない。
けど、こんなに怪我ばかりしては危ないと注意をしてもなおはやっぱりまた怪我をしてきて、わたしは結局なおの怪我を診てしまう。
いつもはヒーローみたいにクラスや部活で人気者のなおが、わたしを頼ってくれる。
わたしだけにはわがままを言って、甘えてくる。
それが嬉しくてしょうがないから。
これはいけないこと、それはわかっている。わかっていても止められないのは、わたしの方だった。
口ではいくら注意しても、本気で止めようとしない。
なおがわたしを求めてくれている。
わたしを必要としてくれている。
なおにとって、わたしは特別な存在。そう思う度に、なおを抱きしめたくなってしまう。
いつしか、なおに必要とされていたいという気持ちは、一番なおに愛されたいという感情に変わっていた。
求められることに応える。
それがなおを受け入れること。
なおを愛する方法。
どうしてこうなってしまったのでしょう。
わからない。わからないけど、わたしはいつだってなおの怪我を治す。
求めるなおに、ただ応える。
●
今日はなおの家で一緒に宿題をした。
最初は二人とも勉強に集中していたのに、ふとなおを見ると指から血を流していた。
どうもノートをめくろうとして、指を切ってしまったらしい。
「ごめんれいかー、またやっちゃった」
怪我をしていない手で、なおは少し大げさに頭をかく。その仕草が可愛くて、同時にわざとやったのだと察せてしまう。
「もう、なおはしょうがないわね」
ため息を吐きつつも、わたしは微笑んでしまう。
わたしの中に暖かい何かが灯る。
こんなことをしているのに、なおが好きになっていく。
絆創膏を貼らないと、そう思ってなおの手を取った。
取った手と一緒に、なおがわたしを見つめる。なんて綺麗な瞳でしょうか。
僅かな時間だけどなおに見蕩れてしまったようで、その間に血が一滴、指からこぼれてしまった。
この時わたしは、なおの指に舌を這わせた。
思わず『もったいない』と思ったから。
赤く滴る傷口さえも愛しくて、鉄の味が広がる。なおの身体に流れていたその一部がわたしと混ざり合う。
なおの手とわたしの手が触れ合って、わたしの舌がなおから流れる血を舐めとり細くて綺麗な指を唾液が汚していくから、わたしはまた指を舐めて、幸せな気持ちでいっぱいになっていって、わたしの心は満たされていくとまた新しい幸せで上書きされるそんな気持ちが止まらない。
わたしはなおの指から口を離すと、なおがすごく真面目な顔でわたしを見ていた。
ほんの数秒だけど、わたし達はどちらも言葉も発することなく見つめ合う。
恐かった。
なおに拒絶されてしまうんじゃないかと。気持ち悪いと言われるのが恐かった。
なおは、近くにあったカッターナイフを取る。そして、さっきよりもずっと深く深く、自分の指を切った。
なおは笑う。
いつも通りに笑う。
ちょっとした作業に失敗したような顔で、照れ隠しみたいに、なおは言う。
「また怪我しちゃった……」
「しょうがないわね、なおは……」
わたしは応えた。いつも通りに応えて笑う。
そして、なおの指を――