あなたの言葉は蜜のように、
私の心を蕩かせるから。

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 たっ君は嘘吐きだ。
 まるでなんてことなく、それこそ息を吐くようにすぐ嘘を言う。
「もうー。また、洗濯物出し忘れてる!」
「次からちゃんと出すって」
 私が部屋に脱ぎ散らかされた靴下を拾い上げながら文句を言うと、ベッドの上でティーンズ向けの小説を読みながら、たっ君は軽い返事をした。
「それ、前にも同じこと言ってたでしょ!」
 こういう吹けば飛んでいってしまう羽みたいなノリの時は、大体何を言ってもろくに話すら聞いていない。
 だから私はたっ君から小説を取り上げて怒る。そうすると渋々といった様子でたっ君は床に座り直して、私のお説教を聞く体勢になった。
 でも、そこから十分かけてお説教しても、それが効果的かと聞かれると私は素直に頷けない。
「いい? ちゃんと洗濯物はカゴに入れてね」
「約束するよ。ちゃんとするから」
 これだって、注意すれば一時的には改善されるけど、いつまでそれが継続されるかわかったものじゃない。
 ここで誓った約束なんて、“守られないことが前提”なのだった。
 たっ君はしゅんとしながらも、手で小説を返してとアピールする。
 私はため息を吐きながら小説を返すと、すぐに布団に転がって読書を再開させたのだった。
「もう、調子いいんだから……」
 少しぐうたらし過ぎと思うのだけど、たっ君には学業以外にも生活費を稼ぐためのアルバイトがある。
 場合によっては大きな連休を潰してずっと帰って来なかったり、怪我をしてくるのも珍しくない。
 ならせめて、休める日はきちんと休ませてあげたいと思う。
 思うんだけど……。
「そう言えば美術の課題、月曜日提出だけど、もう終わらせてるの?」
「……。やった、やったよ。完璧にパーフェクトさ」
 これは、たっ君がこの前やっていたゲームキャラクターの台詞だったと思う。しかもこれを言ってたキャラクターも嘘吐きだったような。
「本当に?」
「ホントウダヨ、ウソジャナイヨ?」
「その割には彫刻刀の木くずを全然見てないけど」
「そりゃあ自分で片付けたからね。そんな毎回円に迷惑をかけるわけにはいかないだろ」
 自信たっぷりな笑顔でたっ君はそう言い訳した。最近はこういう表情をドヤ顔って言うんだっけ。
「ちなみに作品は学校に置いてるから、確認するなら明日学校で」
「本当の課題は、絵なんだけど」
「……………………」
「……………………」
 二人の間に気まずい沈黙が起こる。それを先に破ったのはたっ君の方だった。
「は、謀ったな! 人を騙すなんて、どこまで酷い娘なんだ!」
「嘘吐きはたっ君でしょ!」
「後でやるつもりだったんだよ」
「遊ぶより、課題が先!」
 私のため息が一つ増えて、またたっ君から小説を取り上げるのだった。今度は暫く返せそうもない。
 たっ君は嘘吐きだ。
 どうしてこうポンポンと嘘を量産していくのかなあ。
 そんなんじゃ将来詐欺師になっちゃうよと言ったら、「なら今から手に職付けてる俺格好いい」なんて返してきた。
 自覚があっても改善するつもりはないらしい。
 私が洗濯を済ませて部屋に戻ると、キャンバスを取り出して真面目に課題に取り掛かっていた。よっぽど小説の続きを読みたいんだね。ちょっと罪悪感はあるけど、このままじゃたっ君は小説を優先して徹夜で課題をしかねない。
 動機はともかく、真面目にやっているたっ君の邪魔をしないよう私は部屋を出ようとしたのだけど、それをたっ君が呼び止めた。
「あ、円。ちょっと課題でお願いがあるんだけど」
「何? 代わりにやっては駄目だよ」
「そうじゃないって。絵のモデルになって欲しいんだよ」
「モ、モデル……?」
 完全に予想してなかったお願いに、私は目をパチクリさせる。
「そ、モデル」
「お手伝いならしてあげたいけど、それはちょっと恥ずかしいかな」
 提出された課題は皆の目にも止まる可能性があるわけで、そこでたっ君の作品が私の絵というのは、その、やっぱりどうしても照れてしまう。
「それにさ、今回のテーマは“思い出”だったはずだよ」
「もう内容は把握し直してるよ。それに、だからいいんじゃないか」
 ごく普通の顔で私を見ながら、たっ君は言う。
「俺にとって海鳴市で一番の思い出は、円なんだから」
 たっ君のお願いをかわしきれなかった私は、ベッドに腰かけてたっ君の視線を浴びている。モデルというだけでも何だか気恥ずかしかった。
 わかっているつもりなんだけど、どうしても私は、たっ君に甘くなってしまう。長い間そうだったせいなのかな、ある意味たっ君の嘘と似通っているのかもしれない。
 人は習慣を中々崩せないものだ。
 それに、たっ君にとって一番の思い出が私だと言われたのが、どうしようもなく嬉しかったのも事実だった。
 中学生になってから私が一番多くの時間を共に過ごしてきたのはきっとたっ君で、二人で過ごす時間は、そのままそれが日常となっている。
 たっ君も同じように感じてくれていたんだ。
「こうして座っていると、何だか色々思い出しちゃうな」
「色々?」
「うん。例えば、私が落ち込んでいると、たっ君は必ず隣に座って一緒にいてくれたよね」
 友達と喧嘩した日。お母さんに怒られてめげちゃった日。
 理由は様々だけど、そうやって落ち込んじゃうことがあると、たっ君はそれを察して私の隣に座る。
 私がどれだけ強がって平静を装うとしても、たっ君にはその強がりが見抜かれてしまう。
「あれは、どうにかして立ち直ってもらわないと、円さんにご飯作ってもらえないからだな」
「ふふ……」
「何故そこで笑うのか」
「やっぱりたっ君は嘘吐きだなーって」
 そして、たっ君は隣に座るだけで、具体的に慰めてくれたり、励ましてくれたりするわけじゃない。
 何も言わず、何もせず、私の隣にいるだけなのだった。
 たっ君なら沈んでる私からその事情を聞き出して、解決策を導くことだってできるはずだ。
 けれど、たっ君はあえてそういうことはしない。あくまでそばに居るだけ。
 私が一時間そこにいるなら、たっ君も一時間何も言わずそこにいる。
 半日だって、一日だって、たっ君はそうしているだろう。
 いつしか私が自分から事情を打ち明けるまで、たっ君はどれだけでもそうしている。
 悩んでいる理由を話しても、たっ君から喋ることはあまりない。
 大抵はどうしてそう思うのか、どうすればいいと思うかを、ごく自然に言葉を変えて、私に聞いてくる。
 その答えが自分じゃわからない時、初めてたっ君はその先にある道を少しだけ見せてくれる。それだって、あくまでいくつかある方向性を示してくれるだけで、どれを選ぶのかは私に委ねる。
 たっ君がこうしなさいと直接答えを出すことはないのだった。
 それでもその相談が終わる頃には、私の心はすっきり晴れていて、また頑張ろうという気持ちに溢れている。
 たっ君は自分で答えを出すお手伝いと、新しく踏み出す勇気を、私に与えてくれているんだ。
 それについていくらお礼を告げても、ああやって誤魔化されてしまう。
 どれだけ私がたっ君に救われても、「お前が勝手に答えを見つけただけだよ」とすぐに話しを引っ込める。
「酷いなあ」
 キャンバスごしで表情はわからないけれど、声は全然落ち込んでいる様子じゃない。いつもの軽いノリだった。
「それでも私は」
 そんな嘘吐きな、
「たっ君が好きだよ」
「はい!?」
「あ、いや、そんな深い意味なんてないから! 友達としてだからね?」
「ああ、うん。わかってる。わかってるよ」
 話が変な空気になると二人してあたふたと言い訳し合う。こんなところだけは出会ってから五年目に入っても変わらないままだった。
 そっか、
「もう五年になるんだね」
「そうだな。確かに、色々あったよ」
 それから、私達は五年もの間にあったことを語り合った。
 私とたっ君の思い出は、とても一日じゃ語りきれない。
 たっ君は昔から嘘吐きだったけど、たっ君との思い出は嘘偽りなく、今でも私の中でキラキラと輝いている。
「よし、できたよ」
「ホント! ね、見せて見せて」
「まあ落ち着けって、ほら」
 わくわくしながらたっ君の後ろに回りこんで、今しがた描き上がった作品を覗きこむ。
「これって……」
「中々よく描けただろう?」
 そこにいる私は服装こそ今と同じだけどベッドに腰かけておらず、立って歩いていた。
 さらに私の両側には、十歳くらいの子供が二人挟むように並んでいる。
 一人は私が小学生くらいだった頃の姿で、もう一人の子供はどことなくたっ君に似ていた。
 子供達が私を引っ張るように先導していて、三人とも手を繋ぎ満面の笑みを見せている。
「たっ君」
「何だ?」
「本当に、たっ君は一片の迷いなく嘘吐きだねえ」
 私はその綺麗な思い出達と共に現在を歩く私を見て、苦笑する他なかった。
「私達が出会ったのは、丁度中学生に上がった時でしょう?」
 私とたっ君がこんな小さな頃から一緒にいた思い出なんて、最初から存在しない。今度は、キャンバスに描かれた思い出そのものが嘘だった。
「そいつは誤解だよ。俺は何も嘘なんて吐いてない」
「どういうこと?」
「この絵は、“今が思い出”なんだ」
「え?」
 私はたっ君の言う言葉の意味がよく理解できず、思わず聞き返した。
 そんなたっ君は小さな微笑みを浮かべて説明を続ける。
「この絵に描かれた子供達は、未来に生まれるだろう円の子供だよ。その未来が“今の円”の手を引いているんだ」
 ああそっか。これは未来を形にした絵で、今を思い出として描いてるわけだね。だから私より子供達の方が、先に進んでいたんだ。
 そして、そうなるとこの二人は私が産んだ子供ということになわけで。じゃあ、この子達の父親は必然的に一人しかいない。
「と言うことは、この子供達って私とたっ君の……」
 私の頬が熱を帯びて、みるみるうちに自分が真っ赤になっていくのがわかる。
 そして両頬に手を添えて何とか熱を冷まそうとする私。実は嬉しいんでしょ、とそんな自分の様子を冷静に観察している私もどこかにいて。それを自覚するのも、またたまらなく恥ずかしかった。
 嬉しくて。恥ずかしくて。でもやっぱり嬉しくて。
「いや、別に男の方は俺をモデルにしたわけじゃ」
 焦ったたっ君が自分の子供を否定するけど、私の脳内にあるのは、嘘から生まれた私とたっ君の未来絵図だった。
 大人になった私とたっ君と、絵と同じ子供達。可愛い子供に恵まれた私達は幸せいっぱいで……。
「あうう、その、ふつつかものですが、よろしくお願」
「だから落ち着けー!」
 私の様子に慌てふためいたたっ君は、後日学校でこの作品を説明した時、小さな子供は昔の自分達だと説明していた。
 嘘も方便……だよね?