アルヴィールズの食堂近くの角にて、ギーシュは忙しくなく周囲の様子を窺っていた。いつになくそわそわした落ち着かない様子で、彼を横切る者達からはさぞ不審者に見えているだろう。
昨日は浮気が発覚してしまいすったもんだの末に、ギーシュと少女達の仲を禊が元に戻すと約束をしたものの、やはりどうしても信用はしきれないでいた。
禊は普通の平民ではないと薄々感じてはいるが、それでも平民は平民。そういう考えが貴族であるギーシュの根底にはある。
これは何もギーシュが特別平民を下に見ているわけではなく、魔法や生活水準の明確な格差から生まれたハルケギニアにおいては標準的な社会の在り方なのだ。
とはいえ、昨日の禊には何か確信があるようだったし、もしかしたら機嫌が治ってるかも? という気持ちも、ギーシュの願望として心の何処かにあるのも否定できない事実だった。
不安と期待をないまぜにしたギーシュが悶々として観察を続けていると、反対側から浮気の対象だった下級生ケティがやってきた。だいたい朝の食堂には、モンモランシーより先にケティがあちらの方角からやってくるという習慣を把握しているため、彼はここに隠れていたのだ。
ギーシュは女性にだらしないが、女性の扱いに対して手を抜いたことは一度もない。
そしてギーシュはさも今食堂にやって来たという風を装い歩き出し、偶然ケティを見つけたような態度を取って、さり気なく彼女に近付いていく。
「やあ、おはようケティ。朝から入り口で美しいレディーと偶然出会うだなんて。これは始祖ブリミルの思し召しじゃあないかな」
幾分芝居がかってはいるが、ギーシュからすれば脚色を少なくし、かつ自然と会話をする流れを作った。つもりだった。
ギーシュを見たケティは驚いたようで一歩後ずさりつつ、辛うじて挨拶を返す。
「え? お……おはようございます」
この反応で、ギーシュはケティの機嫌が直っていないことを悟り、心の内で肩を落とした。全然駄目じゃないかあの平民! なんて毒を吐くが、それを外面に出すなんて真似はしない。
「聞いておくれケティ、昨日の」
「どうして私の……。あの、急いでますので!」
ギーシュが取り付く島もなく、ケティはそそくさと食堂に入っていってしまった。これじゃあマシになっているどころか、よそよそしくて昨日よりも冷たい扱いじゃないか。
腫れ物に触るように扱われるなら、まだしも烈火の如く怒っている方が相手はまだ自分に関心を払っている。あの避け方はもう二度と係わり合いになりたくないと思う者がとるリアクションだ。
「やはり彼を信じた僕が馬鹿だったのか……?」
一人取り残されたギーシュは、ショックから食堂の入り口近くで立ち尽くしていたが、このままでは往来の邪魔になるしモンモランシーが現れるかもしれないと、食堂内へ入っていった。
実際、程なくモンモランシーはやって来て他の女子達と談笑している。彼女から離れたテーブルに座っているギーシュだが、しっかりとモンモランシーの様子は窺い続けていた。
ギーシュの友人達は昨日からの経過や、あの平民は上手く二人を取り持てたのかなどを聞いていくるが、そんなのは全部曖昧に濁しながら答えている。ギーシュにとってはそれどころではないのだ。
ケティは駄目だったが、モンモランシーはどうなのだろう。というか前者があの結果だっただけに期待なんて持てるはずないのだが、ギーシュにとっての本命はモンモランシーであり、僅かな可能性でも禊の成功に縋りたい気分だった。
遠くから眺める彼女は、昨日の修羅場など嘘のように楽しそうな調子で笑っているだけに、ギーシュはより都合のいい展開に賭けたくなる。
――そう、昨日は先にモンモランシーの機嫌を直す方に傾注して、ケティは間に合わなかったのかもしれないじゃないか。いやいやそんなはずはないだろう、自分で誤解を解きにいくべきだ。だとしたら昨日の今日でどんな言い訳をすればいいんだよ。
そんな都合の良い解釈を立てつつも不安がそれを否定するという、煮え切らず終わらない思考のループを延々と続けていたが、このままでは何もしないままに授業が始まってしまう。一番最悪な選択は、無為に時間だけが流れてしまい二人の溝がより広がることだ。
意を決したギーシュは、食事を終えて席から離れたモンモランシーへと声をかけた。
「やあ、モンモランシー」
「え? どちら様?」
他人扱いだった。しかも真顔で。
もう頭を抱えてしゃがみ込みたい。一縷の望みが砕け散り、本気でそう思った。だけどここで引いたら本当に破局だ。
「待っておくれ僕のモンモランシー!」
「僕の? 何を言ってるのあなた……」
気持ち悪いものを見るような目で、モンモランシーはギーシュから距離を取る。やっぱりこっちも昨日より悪化している気がした。平民め、完全に騙してくれたな!
後でお望みどおり罰を与えてやる。でもまずはモンモランシーの機嫌取りだ。
僅かな時間で頭をフル回転させて、流れを止めないように口を開く。
「そんな怒った顔、君には似合わないよ」
「あなた、二年生みたいだけど、何処かで話したことでもあったかしら?」
ここで恋多き少年のギーシュが怪訝がる。モンモランシーは怒っているというより困惑しているように見えたためだ。
モンモランシーが憤怒している時は、大抵ろくに話も聞いてくれないか、一方的に怒鳴られるというケースが多い。けれど今はそのどちらでもなく、どうしていいのかわからないという顔をしている。
「それは酷いな、これまで沢山の時間を共に過ごし、愛の言葉を紡ぎ合った仲じゃないか」
「え……?」
やはり変だ。モンモランシーの顔が、血の気の引いたように青くなっている。これは怯えの色だった。これにはギーシュもわけがわからない。
モンモランシーをかなり怒らせてしまったのは昨日ワインをかけられてよくわかっているし、拒絶されるのは致し方ないと思う。
それでもこれは変だ。拒絶は拒絶でも、これではまるで恐いから近付きたくないみたいじゃないか。
「わたしの憶えている限り、あなたと話すのはこれが初めてのはずよ」
「……本気で言っているのかい?」
今度青くなったのはギーシュだった。まず彼は混乱し頭で状況の整理を試みるが、どれだけ思考してもやはりわからない。何がどうなれば昨日の修羅場から、こういう展開に行き着くのか。
だけど、モンモランシーが次に放った一言が、ギーシュに最悪の展開を想起させた。
「ミスタ、あなたは誰?」
はまってはいけない歯車が、カチリと嵌る。この困惑はモンモランシーだけでなく、ケティも同じだったんじゃないだろうか? だから碌に話しもしないまま、怒った風もなく逃げていったのでは?
それはつまり、二人が揃って、ギーシュを忘れてしまっていることを意味していた。
背骨が氷柱にでもなかったんじゃないかという悪寒が、ギーシュに走る。そう言えば、昨日、あの平民は何と言ってギーシュと約束を交わしていた?
――『お詫びとして僕がさっきの二人と君の仲を戻してあげるよ』
ギーシュはある答えに辿り着いた瞬間、駆け出していた。その鬼気迫る勢いに、周りにいた他の貴族が思わず気圧され道を開ける。
「え、ちょっと! なんなのよ!」
当事者であるモンモランシーすら置き去りにして、ギーシュが向かったのは教室だ。ギーシュは朝からルイズの雰囲気がどうにも重々しかったので声こそかけなかったが、モンモランシーだけでなくあの使い魔についても少しは注視していた。だから彼女らが先に出て行ったのは知っている。
居た。何が楽しいのか、昨日と同じ笑顔の平民がルイズの隣で座っている。やはりルイズからは重苦しく近寄りがたいオーラが漂っているようだったが、もう関係ない。
ギーシュは、力の限り禊を怒鳴りつけた。
●
ルイズは、突然やってきて怒りをぶちまけるギーシュと、それを軽く受け流している禊を交互に見ているだけしかできなかった。
これは何がどういう話なのだ。事件の全容を知らないルイズにとっては、降って沸いた緊急事態である。いきなりこれで取り乱すなというのが無理な話だった。
『やあ、おはようギーシュちゃん。朝から決闘者気取りかい? 残念ながら僕の特製デッキはここにはないぜ』
「二人に何をしたんだと聞いている!」
『人の話はちゃんと聞いておくべきだよ? 僕は宣言通り、あの娘達の関係を元通りに戻してあげただけさ』
「ふざけるな! それでどうしてああなるというんだ!」
憤怒に任せて、ギーシュの握り拳が机に叩きつけられた。こんなに激情したギーシュはルイズも初めて見る。
『二人の記憶がギーシュちゃんと出会う前に戻れば、ギーシュちゃんがどれだけ浮気をしても、あの娘達が裏切られ傷付くことはなくなるだろう? 花は摘まなければ世話をする必要もないのさ』
話を聞きかじっているだけで、嫌な予感が沸々と沸き上がってくる。そのためルイズは禊に説明を求めたのだが、そんな余裕すらもギーシュは与えてくれやしない。
「ちょっと、わたしがいない間に、あんた何をしているのよ」
「やはり……。君、自分が何をしたのかわかっているのかい?」
『何をしたかの説明を求められて、僕はきちんと答えていると思うんだけどなあ』
「そういう問題じゃない! 君はマジックアイテムを使って貴族の記憶を消したのだよ!」
記憶を消した!? 記憶を操作するマジックアイテムともなれば間違いなくご禁制の品であり、相手が貴族ならばとんでもない重罪だ。
――たかが半日放置していただけで、どうしてこんな大事件が勃発しているのよ!
『別にマジックアイテムなんてファンタジーの面白アイテムに頼ってはいないけど、それは言うだけ無駄かな』
マジックアイテムを使っていない、その言葉にルイズの心臓がドクンと高く打たれた。ならつまり、禊が二人の女の子にかけたのは、純粋な魔法ということになるのではないか。
「大事なのはどうやったのかではなく、何をしたかだ。貴様の罪は重いぞ」
『約束を果たしたのに横紙破りみたいな扱いをされるなんて、僕が政治家なら遺憾の意を表明しているよ。だから……』
人の記憶を操作するという行為を実行しておきながら、禊は悪びれもせず平然としていた。さらに、愛嬌のあるいつもの笑顔でギーシュを嘲笑うかのように言葉の続きを紡ぐ。
『僕は悪くない』
「貴様……!」
ギーシュの怒りが頂点に達し、薔薇の杖を禊へと突きつけるが、歯を食いしばって魔法の使用は抑えた。代わりにギーシュは決闘についての続きを投げかける。
「今日の昼休み。ヴェストリ広場で君を待つ。逃げることは許さない」
『おや、僕なんかのためにお昼まで猶予をくれるのかい?』
「勘違いするな。君が受ける罰を、貴族の誇りを汚した報いを! より多くの者達に知らしめねば、僕の気が済まないのだ!」
ナルシストで格好付けたがりなあのギーシュが、許せないからという理由で人目の集まる時間と場所を選ぶ。そんな彼の怒りがどれ程のものであるか、想像に難くない。
「ちょっと待ちなさい。わたしの許可もなく、勝手に話を決めないで」
まだその正体が何者なのかすらよくわかっていない禊が、ギーシュと決闘するなんて危険過ぎる。しかしルイズが知らぬ間に生じた渦は、彼女が割って入ったくらいで収まるものではなかった。
「ルイズ、君は知らないのだろうけど、この平民は君の誇りまで汚しているのだよ」
「それはどういう意味?」
「君の使い魔は、彼女達の記憶を消すのに、ご主人様にかけて誓うと言ったのさ」
「なな、なんですって!」
主人と使い魔は一心同体であり、使い魔の失態は主人の失態となる。それだけでもルイズには大打撃には違いないが、禊はギーシュとの約束にわざわざルイズの存在を出していたのだ。
禊が一方的に誓っただけとはいえ、禊が自信を持って記憶消去をしたというのなら、それはルイズが同等のことを同様の態度で行ったのに等しくなる。
ルイズは昨日とはまた違った意味であまりに酷い急展開に、目の前が真っ暗になった。
「だが、僕はこの罪で、ルイズを責めるつもりはない」
「え?」
「君が認めようが認めまいが、この平民は君の使い魔なのだろう。だけど彼は特異過ぎる」
怒り心頭のギーシュなのだが、禊の異常性もまた少なからず感じ取っているようだ。そうでなければ使い魔との連帯責任を問わないなど言うはずがない。
「それに、この平民が僕と約束をしたのは、使い魔召喚の儀式を行ってからまだ二日だ。たったそれだけの時間で、彼を躾けるなんて君には、いや誰にもできやしないだろう」
軍人の息子である彼のプライドは、貴族の中でも殊更高い部類に入るはずである。そんなギーシュが、自分すら平民一人を制御できないと認めるような言葉を発した。
何を隠しているか定かではない危険な敵に、それでも立ち向かい記憶を消された女の子達を守るとギーシュは決意している。これは、貴族としてあるべき姿ではないだろうか。
それだけに、ルイズにかかっている責任は小さくないのだと彼女は自覚した。きっと、この決闘は止められないのだろうとも。
「僕は貴族としてその平民に罰を与え、モンモランシーとケティの記憶を取り返す。この杖にかけて!」
ギーシュが一輪の薔薇を掲げ、周りの生徒達は皆何事かと彼に注目していた。貴族の誇りと尊厳をその力で以って示されることになった平民は、やはりいつもと同じ笑顔で人事のような返事をする。
『愛する者達と自分の誇りのために戦う貴族の自分格好いい! そんなギーシュちゃんの自己陶酔を守るために戦ってあげるよ。君の中二病にかけてね』
「何とでも言うがいい。君の悪逆非道を裁くのは、あくまでヴェストリ広場でだ」
禊の減らず口にギーシュはより冷たい視線を投げかけるが、これ以上の問答は無駄であると悟っているのか、そのまま背を向け去って行った。
その背を見つめる禊は広げた掌を天に向け首を横に振るばかりだ。あの使い魔のことだ、あくまで自分は悪くなくて、勝手に向こうが怒りをぶつけているだけとしか見ていないのだろう。
「あんたはどこまで正気なの?」
『僕はどこまでいっても過負荷さ』
「……本気で決闘するつもりなのね」
おちゃらけてこそいるが、禊はわざと決闘になるようギーシュを仕向けているのではないか。どうしてそうなったかの経緯は知らないが、そうでもなければわざわざ部分的に記憶を消すなんて真似をするわけがないだろう。
『ルイズちゃんはまさか、僕を心配してくれてるのかい? ならそれには及ばないよ。だって僕が勝てるわけないんだから』
誰にも勝ったことがない。禊が召喚された日に自信満々に言っていたが、あれは本当だったのか。もうこの使い魔の語る話は、まともに聞くだけ馬鹿を見るとしか思えないけど。
『なんてったって、僕はゼロの使い魔だぜ』
「だったら好きに戦って、惨めに負けてきなさいよ!」
使い魔にまでゼロ扱いされたルイズの頭は真っ赤になり、彼女は声を張り上げた。ゼロというフレーズは、この最低な使い魔を召喚するような者が自分なのだと、嫌でも実感してしまうのだから。
今やルイズにとってゼロというコンプレックスは、禊の召喚前よりも遙かに大きくその過負荷を増していた。
「だけどその前に、昨日あれから何をしたか、全部わたしに説明しなさい!」
それでも、ルイズはもうこの使い魔を投げ出すつもりはない。昨日の夜、自分の誇りのため、どれだけ最低でもこの使い魔から逃げないと誓ったのだ。遠くの席からキュルケがこちらを見て頷いている姿が見えた。
『説明するより先にもう一度断っておくけど、僕は悪くないよ。なにせギーシュちゃんの浮気を、僕が台無しにしてあげたんだから』
それから教師が教室に入ってくるまで、ルイズの質問が雨荒らしのように禊へ叩きつけられ、事件のあらましを理解したルイズからはすっかり精神的に困憊しているのだった。
こうしてルイズは決闘が始めるまでずっと、主人としてこの事態をどうやって収めればいいのかという答えの出ない問題に悩まされ続けることとなる。