キュルケが怒り心頭で、感情に任せて禊を怒鳴りつける。いつもの自信に満ちて余裕を見せる彼女の姿は微塵もなかった。
「ふざけたこと言ってるんじゃないわよ!」
こんなキュルケは初めて見る。フーケの追跡だって最初に志願したのはキュルケだった。ルイズにとって今日のキュルケはわからないことだらけだ。
「そんなことを言っている場合じゃないでしょう! 本当に貴方はどうしようもなく最低だわ!」
『今は僕とルイズちゃんが話しているんだ。いくら僕の気を引きたいからって、ナンパは後にしてちょうだい』
「あんたって奴は……!」
怒りに任せて禊に掴みかかろうとするキュルケを、タバサが腕をつかんで止める。
「今は駄目」
「でも!」
「こういう時にミソギは無駄なことをしない。自分のペースでしか動かない」
その二つが、ここまで禊と争ってきて理解した、数少ない事実と言えた。悔しそうに顔を歪めながらも、キュルケはまたルイズに寄り添う位置に戻る。
『僕の世界では人生がプラスマイナスゼロだって言う奴がいてね。でも人生は「プラスマイナスゼロだ」って言う奴は、決まってプラスの奴なんだ』
「そうかも……しれない、わね…………」
いつもなら頭ごなしに反発している禊の言葉が、今は染み渡るようにルイズの中へ入り込んできていた。
ルイズの心はその流れに逆らわず静かに闇へ沈む。
●
そうか、わたしは不幸だったんだ。
わたしの不幸が、きっと過負荷の禊を喚び出したのね。
これじゃあゼロの使い魔どころか、マイナスの使い魔よ。
『君の二つ名はゼロだけど、君の人生は不幸だ。けど、きっと君の横に寄り添うお友達の人生は幸せだったと思うんだ』
キュルケ……。有り余る魔法の才能と、何人もの男に言い寄られる容姿。
これだけの素質があれば、きっと彼女の人生は輝かしいものに違いないわ。
『ルイズちゃん、君は僕と同じ過負荷側の人間だ。だから君は僕のことがわかるはずだ』
禊が、螺子のない両腕を広げる。その姿は、まるで世界中に起こる全ての過負荷を受け入れているよう。
『不条理を、理不尽を、堕落を、混雑を、冤罪を、流れ弾を、見苦しさを、みっともなさを、嫉妬を、格差を、裏切りを、虐待を、嘘泣きを、言い訳を、偽善を、偽悪を、風評を、密告を、いかがわしさを、インチキを、不幸せを、不都合を、巻き添えを、君なら受け入れられる。愛しい恋人のように』
そう、受け入れればいいのね。
受け入れるということは、認めることに等しいのだわ。
そして、わたしはもう自分が不幸だと認めてしまっている。
胸のつっかえが取れた気分だわ。
ああ、これでやっと開放さられるのね。
これでわたしは幸せになれるのかしら?
なれるわけないわ。
だってわたしは不幸なのだもの。
不幸はどこまで生きても不幸よ。
今更幸せなことがあったとしても、それくらいでわたしの不幸は覆らないわ。
今日まで受けてきた嘲笑が。罵倒が。侮蔑が。屈辱が。
どうやったら打ち消されるというの?
どうやったら報われるというの?
歪んだわたしの心は、歪んだ成長しかしない。
けどそれでもいいじゃない。
だって不幸のままでも楽にはなれるから。
自分は貴族だって、貴族としての振る舞いを義務付けなくたってよくなるのよ。
そんなわたしを許してくれる人がここにいる。
ギーシュが言ってた。禊は弱者を助けるのだものね。きっと誰より弱いわたしのことを、助け続けてくれるわ。
ああ、なんて素敵なんでしょう。
わたしは、生まれて初めて不幸のままのわたしを認めてくれる人に出会えた。
とても心地よい。生ぬるいお湯に全身を浸けているような感覚。
これが、ミソギの友情なのね。ぬるい友情だわ。
さあ、早くミソギに伝えましょう。
わたしは不幸よ。だから過負荷の友達になるわ。
だから助けて。
もうこれ以上、わたしに貴族の真似事をさせないで。
過負荷として生きさせて! ……………………あれ、これは何かしら。何かが顔に触れる。ぽつ、ぽつ、って。
それに、なんだかさっきから暗いわ。ああ、わたし、いつの間にか目を瞑っていたのね。
「ルイズ! しっかりしてルイズ!」
なによ、うるさいわねキュルケ。
どれくらいぶりかわからないけど、開いた目に泣きじゃくるキュルケが映っている。
わたしはもういいの。不幸で、過負荷な、マイナスのルイズ。
それがわたしなのよ。
だからもう、貴族を貫いて死ぬこともないの。
恐いのを無理しなくていい。わたしは死にたくない。
「過負荷でもいい! それでもわたしは貴女の友達だから! だから死なないでルイズ!」
私に触れてくるのはキュルケの涙だった。
わたしが、過負荷でもいいって、貴女も、認めてくれるの?
それから、お腹がずっと温かい。ミソギのぬるさとは違う、少しぽかぽかする熱。
タバサ、貴女なのね。
さっきから、一言も喋らないけど、ずっとわたしを治療してくれていたの?
荒々しいけど優しい言葉。恐怖を和らげてくれる暖かな光。
わたしは昔、同じぬくもりをどこかで感じた気がする。
そうだわ。これは昔家族でピクニックに行った日のことよ。
さっきも少しだけ思い出した、あの日の出来事。
家族皆と一緒なのが久しぶりで、はしゃぐわたしは一人で勝手に遠くまで行ってしまった。
そこで亜人のトロルもに出遭ってしまったの。野生で凶暴なトロルは、わたしに襲いかかってきた。
恐くて恐くてわたしは泣きながらトロルから逃げたけど、途中で石に躓いて、トロルはずぐに追いついてきた。
トロルの振りかぶった腕が、わたしに振り下ろされて――そこで間一髪でお母様が風の魔法でトロルを倒して、わたしを救ってくれたのよね。
本当に格好良かった。わたしもあんな風になりたいと思った。
なれるわけもないのに。
あの頃のわたしは、自分には無限の可能性があるんだって、まだ無邪気に信じていた。
お母様は強い。本当に強くて、貴族の鑑みたいな人。お姉様達もお母様の才能を継いで素晴らしい才能を持っている。
そんなお母様が、あの時は泣いていた。わたしが知る中で誰よりも強いのお母様の瞳が潤んでいたのよ。
いつも恐いエレオノール姉様が、あの時はもっと恐くて、けれどただ泣くだけのわたしを抱きしめてくた。
わたしの頬に触れるエレオノール姉様の涙はすごく熱かったわ。
優しいちー姉様は水の魔法で、擦り剥いたわたしの膝を治療してくれた。
温かい涙と、温かいぬくもりだった。
ああ、なにが嫌な記憶よ。
わたしはこんなに愛されているんじゃない。
気付いてなかったのは、わかろうとしなかったのはわたしじゃない。
誰かじゃなくてずっと昔から、わたしが自分をゼロだと認めていたのよ。
そうして自分で作った殻に閉じこもって、わたしは意固地になっていた。
気付くのが遅いわよ、わたし。
もっと早く気付いていたら、わたしは……。
いいえ、それも違うわね。
だってわたしには、わたしのために泣いてくれる友達がいるわ。必死に助けようとしてくれている友達が。
過負荷のわたしを友達にしてくれるのではなくて、過負荷になってもわたしの友達を続けようとしてくれる子達がいる。
『さあ、ルイズちゃん。キュルケちゃんもやっぱりルイズちゃんは過負荷だって言ってくれているぜ? 答えておくれよ』
そうね、ちゃんと答えるわ。
「ありがとう、ミソギ」
気付かせてくれて。
教えてくれて。
貴方のおかげで、わたしはやっと自分に向き合えたわ。
「わたしの人生は幸せよ……だから、ミソギとは友達になれないわ」
●
ルイズの返答に、キュルケは驚愕した。タバサでさえも、大きく目を見開いてルイズを見つめている。
それもルイズは最後の力を振り絞るかのように、はっきりと答えた。
「ルイズ、なんてことを言うの……!」
ルイズが出した結論は、この場にいる誰しもが予想外だったろう。
何故なら、ルイズは死の間際でなお、『死んでも禊とは友達にならない』と言ったのだから。
そして、ルイズの表情は穏やかに微笑んでいた。
これから死にいくとはとても思えない。満足している者が見せる幸せ者の笑顔。
そんなルイズの胸に、深々と螺子が突き刺さった。
「な……!」
瞬間、ルイズの血が、落ちかけていた意識が、無慈悲に迫る死が――全てなかったことにされた。
連続して起きる予想外の事態に、キュルケは螺子を放った張本人へと振り返る。
禊は子供が拗ねた様に、しごくつまらなそうな顔で、ルイズの傷が消えるのを見ていた。
けれどキュルケがその顔を見たのはほんの一秒にも満たない時間で、禊が自分の手で顔を覆うと、元の薄っぺらな笑顔に戻る。
『これは危ない。まさに危機一髪だったねルイズちゃん。気を付けてよね、死んだら幸せも不幸もないんだから』
「流石の嘘吐きねミソギ、しっかりわたしを戻してくれてるじゃない」
『僕は産まれてからこれまで、嘘なんて吐いたことがないぜ。憑かれてはいるけどね』
ルイズは最初こそ突然傷が消えたことに理解が追いついてなかったようだが、一度大きく息を吐いて起き上がってからは、禊へいつもの減らず口を叩いていた。
「それでも、わたしの『使い魔』として初めて役に立ったことは褒めてあげる」
『ありがとうルイズちゃん! ゼロの使い魔としてかけられた今までの苦労が報われた瞬間だよ!』
まるでさっきまでの駆け引きすらも嘘だったような括弧付けた台詞で、禊はルイズと雑談している。
しかし、キュルケは確かに見た。わざとらしい演技じみたリアクションではない、感情の宿った禊の顔を。
禊にも、感情と呼べる、人間らしさが存在する。その事実を知った。
「わたしの人生はムカつくくらいに嫌なことばっかりよ。マイナスなことばっかりよ。けどね、ミソギ。人生はプラスマイナスでマイナスって言う奴は、決まってプラスになる努力をしてない奴よ」
『そうかもね。努力しなくてもプラスになれる貴族のありがたいお言葉が胸に染みるよ』
貴族は何もしなくともプラス……それこそ、今のルイズにはわからない言葉だ。
ルイズはずっと努力を積み重ねてきた。重ね続けてきた。
才能がないゼロだと笑われても、決して道を突き進む努力をやめなかったから過負荷の誘惑さえも乗り越えた。
「ごめんあそばせ。貴族という言葉を盾にして逃げている者達の不満なんて、わたしにはわからないわ」
決して成果の出ない茨の道を歩み続けることは如何に想像を絶する苦痛を伴うことであるか、諦観を拒否し続けることがどれだけ難しいことなのか、逆にマイナス達は知らないだろう。
わかった顔をしている者のほとんどは、中途半端な努力で諦めてわかっている気になっているだけだ。ルイズが貴族と平民の間にある落差をわかったつもりになっているのと何も変わらない。
言葉だけで平民の立場に逃げている者達の心を弱さと呼ぶなら、貴族達の中で平民と同じ才能の扱いを受けながらそれを跳ね除けてきたルイズの心は強い。
「それで、どうしてわたしを助けたの?」
ルイズは真面目な表情になって禊に問う。
当然ながら死ぬ覚悟をしてルイズは禊を拒絶した。過負荷という存在を否定した。
これ以上の決別などあるはずもない。
『使い魔が主人に尽くすのに理由がいるかい?』
「いるわ。貴方に限ってはね」
やれやれと、禊は肩をすくめるが、その答えは初めから用意していたと言わんばかりに、滑らかな口調で語る。
『さっきのルイズちゃんは格好よかったよー。まさに貴族の鑑だね。けどごめーん。誓いとか誇りとか、僕そういうのよくわからないんだー』
「……そう、やっぱりあんたはわたしの敵だわ」
『ん、でも敵って言うのはさ、そこのみたいなのを言うんじゃないかな』
禊が指差した先には、新たなゴーレムが立ち上がっていた。
しかし、今度は土ではなく、泥でできた人形だ。
ぼとぼとと体から泥水を滴らせたゴーレムの群れが、覚束ないゆっくりとした足取りでこちらへ向かってくる。
「なんなのよこれ!」
「数も十体以上」
終わったと思った落ち着いたところにやってきた増援に憤るキュルケに、タバサが冷静さを保ちながら杖を構える。
『これはまるで、ゾンビ映画のワンシーンみたいだな』
「こうなったら、とことんやってやるわよ!」
誰が相手でも一歩も引かない。それがルイズの守った貴族としての誇りなのだから。
ルイズは錬金を唱えて、ゴーレムの一体を爆破した。