夜のとばりで対面する球磨川禊に、タバサは少なからず戦慄を覚えていた。
戦いの最中で、恐いと思ったことはある。危険に身を晒して、神経が過敏になって自分の鼓動を感じるのも珍しい経験ではない。
しかし、対面しただけで戦うという行為すら交わしたくないと思った相手は、これが初めてだった。
禊を見るだけで鳥肌が立ち、気持ちが折られそうになる。
恐い。のではなく、気持ち悪い。
感情を殺して生きてきた自分が、これだけ感情のうねりを自覚するのはいつくらいぶりだろう。
「あなた、わたしのフレイムに何をしたの?」
『大したことはしてないよ。ちょっと主人の眼になる能力をなかったことにしただけさ』
「なんですって!」
監視がバレていた。禊はこちらを油断させるため、あえて尾行され続けて、宝物庫に行くと見せかけたのだろう。つまり、
「……誘い込まれた」
「わたしのフレイムを返しなさい!」
『返すも何もこの健気なフレイムちゃんは、ご主人様との接続が切れても僕を捜そうとしていたから、ここまで連れてきてあげたのさ』
フレイムはキュルケの声に応えてキュルケの元へ戻り、禊も邪魔をする気配はない。この隙は逃さずタバサは動く。
「エアハンマー」
『うぐっ!』
固めた空気の塊が禊の胸を叩いた。禊は直撃した部位を抑えて後退る。
タバサは間髪入れず『エアハンマー』を連発して、反撃の隙を与えない。
だが、禊が風を突き押すようにかざした螺子が、『エアハンマー』を消し去る。
『その圧縮した空気は真っ直ぐにしか飛ばないんでしょ? 見えないなら、無かったことにできないとでも思ったかい?』
「思ってない」
エアハンマーの弱点を看破されたのは、タバサにとっては筋書き通りだ。
「こっちよ! フレイム・ボール!」
欲しかったのは最初の一撃を入れるきっかけだ。そしてそれを達成した今、作戦は次の段階に移っている。
キュルケが作り出したのは巨大な火の玉。トライアングルの彼女が作れる最大級の火炎弾を禊に撃ち込んだ。
『おっと』
禊は背後から迫る炎へ、半身を捻って螺子をそれにぶつける。
どれだけの力を流し込もうと大嘘憑きが相手では、等しく台無しにされて終わりだ。
なら、禊を倒すには、どれだけの力が必要なのか。
「相棒! こりゃ二重の罠だ!」
禊に背負われた剣が、カタカタと鍔を鳴らしながら、禊に警告を発する。
だけど、その手助けならぬ口助けは遅かった。
「ほんの一刺しできればそれでいい」
タバサは杖の上下を持ち換え駆け出し、杖の先端に集約させた氷の刃で、禊を一突きにした。
「タバサ!」
キュルケの驚いたような、哀しむような表情に、タバサの心にチクリとした痛みが沸く。
禊を倒すのに大きな力は必要ない。その命を刈り取るための小さな刃物だけでいいいのだ。
タバサの使用した魔法は『ブレイド』。杖に各々の属性に合わせた刃を形成する魔法だった。
『う、ぐ……』
小さく唸るように呻く禊に、けれどタバサは何の安心感も得ていなかった。
禊は先程までの振り向いた体勢ではない。故にタバサが突き刺した部位は即死させる位置ではなかった。
『振り向いた現実を無かったことにしていなければ死んでいただろうね。こんな僕だって、死ぬのは、死ぬのだけは本当に嫌なんだ』
ブレイドの魔法は解除され、タバサは縫いつけるように地面へと螺子伏せられた。
鉄が肉を貫く鮮烈な激痛に、タバサのできる抵抗は呻くような小さな言葉を吐き出すのみ。
「ぐ……う……ふ」
「タバサァ――!!」
キュルケが半狂乱で『ファイアー・ボール』を連射する。
ろくに狙いも付けられていないそれは、何かを燃焼させることもなく、全てが無かったことになるだけ。どれだけ感情を燃やしても、微熱による炎上は起こらない。
『おめでとう! 二人で僕の隙を付いて、不可避の一撃を叩き込む作戦は大成功だね』
「黙りなさい!」
『そうかい。なら、蚊のようにか細く痛みを訴え続けるタバサちゃんを、きちんと静かにしてあげようか』
タバサに刺さる螺子の一本を禊は踏みつけ捻った。その外道な行いに、キュルケの憤怒は天井知らずに上がっていく。
「な……! あんたって男はどこまで最低なのよ!」
『完全なまでにさ』
感情に任せて荒れ狂うキュルケをさらに挑発するように、タバサを見下ろしながら、彼女の頭上に螺子を掲げてみせる。
「ギアス」
『ん? 今何て……』
タバサが禊にも聞こえるようぽつりと言い放った。その言葉を聞いた途端禊の瞳には魔力による光が宿り、急にだらりと両腕と頭を下ろして、それきり動かなくなる。
「おい、相棒。突然動かなくなってどうしたんだ? 相棒、返事しろ!」
「あなたの言う通り、大成功」
タバサのささやかな抵抗は、詠唱として結果へと結び付いた。
普通のメイジがネジで貫かれたら、それだけで心は折れるだろう。
しかし、タバサはこれまで命のやりとりという、異常な経験を幾つも経てきた歴戦のメイジだった。
螺子伏せただけでは、騎士である彼女の心は折れない。
「上手く、いったの……?」
「ギアスをかけると同時に、すぐに行動を止めるように命令を設定した」
「こりゃあ重度の催眠魔法じゃねぇか。おでれーた。まさか学生がこんな禁呪使うなんて考えもしなかったぜ」
タバサが禊にかけた魔法は、数ある魔法の中でも洗脳の効果を有する『制約』。
ギアスは禁呪として学院でも教わらない魔法である。
それをタバサは禊の暴走を止めるためにのみ使用するという条件の下、コルベールから特別の許可を得て、『フェニアのライブラリー』から詳細を調べだし拾得していたのだった。
「タバサ! どうしてこんな真似をしたのよ」
二人が取り決めていた作戦が予定通り決行されたのは、キュルケが『ファイアボール』で禊を引きつけるという部分まで。
本来はこの間にタバサが制約の詠唱を唱える手はずだった。
「確実に、魔法をかけるため……」
「いくら何でも無茶し過ぎよ! ミソギを倒す前に、タバサが死んじゃ意味なんてないのよ!」
タバサが一人で練っていた作戦は、ブレイドをわざと外して、禊に作戦が失敗したと思い込ませること。
狡猾な禊ならキュルケが二段構えの囮だということはすぐに気付くだろう。そして魔法には詠唱しなければならない弱点もある。
この二つを同時に解消するために、タバサはわざとブレイドを外したのだ。
キュルケに何も告げなかったのは、キュルケから作戦が失敗したという反応が欲しかったため。そして何より優しい親友はこのやり方には絶対に反発すると思ったからだ。
「すぐに先生を起こしてくから少しだけ待ってて!」
螺子伏せられたままのタバサに、涙目の友人が駆けつける。今すぐ命に関わるレベルでこそないものの、傷自体は決して浅くない。
「その必要はない」
「ないわけないわよ!」
焦って今にも飛び出そうとするキュルケに、タバサは簡潔に理由を告げる。
「ミソギに傷を無かったことにしてもらう。その方が効率的」
「ああ、そうね……そうしましょう」
目の前で友人が血を流したことにより、キュルケはやや動揺しているようだった。
今や禊の自由は、全てタバサの手の上に乗せられている。
自分の行った洗脳という行為に、心を壊された大切な人の姿を思い浮かべたが、自分は違う。
これは禊による犠牲をこれ以上増やさないため、学院にも認められた必要な措置だ。そうやって自分の中で矛盾する行為に理由付けをして納得する。
それでも、針で指すような小さな痛みが彼女の心には残っているが。
『ギアス』は所詮催眠をかけるだけの魔法だ。大嘘憑きとは違い、解除するのは容易い。
禊から大嘘憑きについての情報をあらかた聴きだした後は、その使用を封じる暗示のみを残し、他は元に戻すつもりである。
禊の心を完全に破壊したり、命を奪おうとは思えなかった。これでも彼はルイズの使い魔で、自分にとっても重要な鍵を握る存在なのだ。
「ミソギ、わたしの傷を無かったことにして」
その命令を伝えると、ミソギは顔を俯かせたまま、意思のない人形のようにゆっくりと腕を上げていく。
「何にせよ、これで一段落ね。タバサ、今回は上手くいったけど、もう二度とこんな危険な真似はしないでね」
そう言ってキュルケが禊に背を向けた。その時、禊の持ち上がった腕は突如加速し、背負っている大剣に手をかけると、背後からキュルケを貫いた。
「う……そ……」
キュルケが弱々しく振り向き、タバサが滅多に見せることのない驚愕の顔で前を見据える。
どちらの視線も行き着く先は、見る者の心を凍り付かせる薄っぺらな禊の笑顔だった。
●
ごぽり。
と、キュルケの口から大量の血が零れ落ちる。
自分が寒いのは、禊に対する恐怖なのか。それとも、もうすぐ命の灯火が消えようとしているためだろうか?
濡れた剣の赤は、キュルケの体内に流れているはずの液体で、だけどそれらは次から次に体外へと溢れ出している。
今にも消え入りそうな意識を支えているのは、痛みという死を予感させる恐怖の塊だった。
「キュルケ……!」
『おやおや、そんな目で僕を見るなんて酷いな。君達が先に僕を刺したんだぜ? 君達に僕を非難する資格はないよ』
剣を引きぬかれたキュルケは、力なく、その場へ崩れ落ち膝立ちになる。地面に垂れる赤の色が地面を侵食するように広がっていく。
『だから、僕は悪くない』
禊の手の平が、キュルケの頭を軽く叩く。死にかけていようとも、その手は気持ち悪かった。
「え、あ……あ、わたし、生きて……」
気が付くと、キュルケの身体は元に戻っていた。
剣が突き刺さっていた胸を撫でると、そこには血痕はおろか、穴の開いた形跡さえない。地面に流れた血液も消えており、恐らくはまたキュルケの中で元通り循環しているのだろう。
「キュルケを、離して……」
タバサの周囲から熱が奪われていく。氷を発生させる魔法で自分の傷口を凍らせ、出血を止めた。そうまでして尚戦おうとするタバサに、キュルケが見かねて叫ぶ。
「もう止めてタバサ!」
『そうだよ。キュルケちゃんは、もうタバサちゃんの碌でもない作戦で、痛い思いなんてしたくないってさ』
「ひ……!」
キュルケは自分の首に触れた刃の冷たさに悲鳴を上げた。死ぬのは嫌だ。死にたくない。
ついさっき死の際まで達したばかりの精神が、体裁を無視して生きながらえたいと荒れ狂う。
「タバサ……助けて……」
わたしに構わず戦って。わたしなんて気にせず逃げて。本当に言いたいのはそれなのに!
喉まで出かかる友への想いは、生への執着に押し潰されて、キュルケの瞳からは悔しさの涙が流れた。
「わかった。わたしは何もしない。だからキュルケを開放して」
そう言ってタバサは握りしめていた杖を禊の方へと投げ捨てる。これでタバサは魔法という力を、キュルケは戦う心を失った。
『いいよ。僕は誰かさん達と違って、争いは好まない優しい人間だからね』
タバサの杖を拾い上げた禊は、そのままキュルケに当てがっていた刃を離す。開放されたキュルケは、身体の力が抜けて地面に手をつき四つ這いの姿勢になった。
「それと一つ、教えて欲しい」
『どうして洗脳の魔法が通じなかったの、かい?』
「そうだぜ相棒。無事で何よりだけどよ、てめぇ何で正気を保ってんだ?」
先回りした禊の質問に、タバサは螺子伏せられたままに頷く。
――そうよ、禊は『ギアス』で何もできなくなってたはずじゃない。
刺されてから精神的に衰弱し続けているキュルケは、タバサに言われて初めてようやく『ギアス』から解放されて自由になっている禊に疑問を感じた。
『他人を支配するスキルを扱う子と、僕はお知り合いでね。洗脳の弱点は、命令が伝達するまでのタイムラグと、洗脳がないニュートラルのタイミング。この二つだ』
「でもよ、この嬢ちゃんは相棒にギアスをかけてすぐ動くなという命令を出したんだろ?」
『そうみたいだね』
ギアスをかけられていた張本人の禊は、まるで他人事みたいに語っている。その理由がわからない剣は、カタカタと鍔を鳴らすばかり。
『だけど、そんなの関係なく洗脳を解除する方法が、一つだけあるんだよ』
「あなたは……ギアスすらも読んでいた……?」
『ピンポーン! 制約の魔法だっけ? そんなのかけられた瞬間無かったことにしちゃえば、何の効果も及ばさないでしょ?』
――そんな……。じゃあ何のためにタバサは、あんな怪我までして……。
キュルケの身にのしかかるのは、自分達の無力感だった。
フレイムを使って禊を監視し、コルベールから許しをもらって禁呪を調べて、そしてこんな大怪我までしてやっと禊に魔法をかけたのに。
それら全てが無駄でしかなかったという結果が、キュルケの戦意や抵抗の意思を完全にへし折った。
「どうしてわたしの切札がわかったの?」
それでも、タバサは淡々と会話を続けている。どうしてまだ自分の失敗した理由を探れるのか、キュルケにはわからない。
『君達の考えるだろう僕の大嘘憑きを封じる方法は二つ、“殺す”か“意識を奪う”。小柄な女の子が、わざわざ接近して僕を殺そうとしたんだ。捻くれ者の僕は、あえて意識を奪う方を警戒しちゃうぜ』
「そう……」
何かを思い描き夢想するように、タバサはすっと目を瞑る。
「きっと、あなたは、ずっと戦い続けてきた。それも人の行動は全て警戒するしかないくらいに、ずっと」
『そう思うなら、きっと君はそういう風に生きてきたんだろうね』
禊に言い返されたタバサは、目を開きそれ以上何も言わず、ぎゅっと拳を握りしめた。
ただ見ているしかできないキュルケには、敗北感と疎外感のみが募る。
「相棒。これから、二人をどうするつもりなんだ? このまま帰したら、また仕返しされるかもしれねえぞ?」
『そうだねえ……。二人で戦い合って生き延びた方だけを助けよう。裸エプロンで僕に傅け。どちらの罰ゲームを決行しようか』
「おい、相棒がそれでいいなら文句は言わねえけど、内容偏り過ぎだろ……」
冗談みたいな二者択一を本気で考える仕草を見せてから、禊は自分の勝ちを決定するために大仰に頷いた。
『決めたよ、やはりここは裸エプロンだ』
「相棒! 後ろだ!」
話を遮って大剣が警戒の言を禊に与える。
狂った世界をさらにかき乱すように、十メイルを超える土でできたゴーレムの巨体が、長い夜はまだ終わらないぞと告げていた。