「お前は今、自分の弱さを見つめているのだろう。だけど安心しろ、救いの手はすぐに差し伸べられる」
誰かが何かをほざいてる。俺の過去に救いなんてあるものか。だから僕はこうなったのに。あそこにいるのは奪う人達ばかりで、お姉ちゃんとエノクだけが、僕の手を取ってくれたんだ。
そしてお姉ちゃんはもういなくて、エノクは……。
●
お姉ちゃんが犠牲になり、僕とエノクは助かったけど、研究所の恐い大人達は逃げてきたことを許してくれなかった。
お姉ちゃんは研究所の成功作で魔法が使えて、僕達より大事だから。どうして僕達が代わりに死んでこなかったのかと、いっぱい怒られて叩かれた。
痛くて、泣いても許してもらえない。恐い大人達は、罰として僕達を同じ牢屋に監禁した。ご飯は貰えずに、毎日お水が朝と昼と夜に一杯づつだけ。
僕とエノクはお水を飲み、並んで座り続けた。始めは鉄格子を握って何度も謝ったけど、長い棒で叩かれてもっと苦しくなる。
垢で身体が黒くなっていって痒い。今日が何日なのか、そもそも朝か夜かもわからない。
ただ毎日置かれる水だけが、どれだけ時間が経ったかを僕達に教えてくれる。それすら意識に霞がかかるにつれて、今日が何日目なのか、そもそも朝か夜かさえ曖昧になっていく。
僕が時々「お腹減ったね」と言うと、エノクは「そうだな」と返す。それだけの毎日だった。
流していた涙も枯れてしまい、心と身体が動かなくなって思う。僕はいつまで生きていられるのだろう? いつまで生きていればいいんだろう。死んでしまった方が、ずっと楽なんじゃないの? それでも僕が生きているのは、やっぱり死ぬ勇気がないから。
心の中で何度もお姉ちゃんを呼んだけど、僕を助けてくれる人はもういなかった。
そして無限に感じられた罰の毎日は、突然終わりがやってくる。
その日僕達の前に置かれたのは、水じゃなくて、ナイフだった。
何時も見張りの人は一人 なのにこの日は三人で、真ん中の人は研究所の偉い人のはずだ。
「腹が減っただろ。食事をしていいぞ」
ご飯を食べられるの? だけど、ここにはナイフしかない。
「察しの悪いガキだな。おいC155てめえはわかってるんだろ」
C155というのはエノクが付けられている検体ナンバーだった。エノクはじっとナイフを凝視していて、研究所の人達は僕と同じでぼうっとしてたのに、今はとても思い詰めているみたいだった。
「エノク?」
僕は、そんなエノクが不安になって、名前を呼ぶ。その声に反応したエノクはこっちを見て、
「うあ!」
僕を押し倒しのしかかって、首を絞めてきた。
何で? どうして? そんなことをするのエノク?
そう聞きたくても喋れない。代わりにエノクがぶつぶつと僕に、いや一人言を呟いている。
「生きるためにはこうするしかないんだ。姉さん、これは仕方ない、仕方ないんだよ」
そしてようやく僕も気付く。あのナイフは、相手を殺した方を牢屋から出してやるという合図だったのだと。
あの森で大人に囲まれたみたいに、僕はまた今殺されかかってるんだ。
「う、ぐっは」
苦しい。けれど生きてるのもずっと苦しくって、これで楽になれるんだよね。
苦しい、でもこれでエノクは助かる。なのに、僕の首に手をかけているエノクは、息が荒くて泣き出しそうな顔をしている。
殺す側なのに、悲しそうに顔がくしゃくしゃだった。
「ど、して……」
どうしてそんな顔をするのエノク? 二人の内一人しか出られないなら、エノクが外に出るべきじゃないか。僕が生きたって、生かされてたって、どうせすぐ死んじゃうんだから。エノクなら僕より頭も良くて強いから、一人だって生きていけると思う。
それなら姉さんだって、天国で楽になれた僕を笑顔で迎えてくれるよね。
――生きなさい。
それでも。
――私の分まで生きて。
やっぱり僕は、死ぬのが恐いな。
ここまできてもまだ、僕は、みっともなく生きたいんだ。
僕のせいで姉さんは死んで、僕のせいでエノクはここにいるのに。
「俺は……俺は……」
エノクの指が、首に食い込んでいく。その強さに比例するように、僕の心にある大事な何かが壊れていくような気がして、でもそれでいいと僕は思う。
――私の分まで生きて。
姉さんの声が聞こえた気がしたのに、その声は僕の奥まで届かない。
聞こえるのは、どくんどくんと鳴る、心臓の音。
火が灯る。
僕にしか感じない火が。
死ぬのが怖い。死ぬと何もなくなってしまう。僕がどこにもいなくなってしまう。何も見えないその先が恐ろしい。
恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い。
ならエノクの手を掴んで抵抗する?
違う。そうじゃない。
「うあつっ!」
「げほっ! げほっ!」
僕の指がエノクの目を突いていた。エノクは痛みで思わず自分の目をかばった。空気が吸える。えづきながら逃げた。
僕は死にたくない。
恐い。恐いから震える。
けど、そうしたら僕を守ってくれたお姉ちゃんが死んだ。
僕は死にたくない。
震えちゃ駄目なんだ。震えると殺されちゃう。
人は恐いと何もできなくなって死んじゃうんだ。
そしてあのままだと首を締められて死んでしまっていた。
僕は死にたくない。
だから絞められる手に怯えちゃいけない。死にたくないから生きるんだ。
生きるために恐がっちゃいけない。
「拓馬……お前……!」
エノクが僕を睨む。恐い顔だ。殺す顔だ。僕を殺したい顔だ。
僕は死にたくない。
考える。考えよう。恐いから、恐くないように考えよう。
どうして考えるの? 生きたいから。そう、どうしてが大事だ。
どうしてエノクは僕を殺そうとするの? 答え、エノクは生きたいから。
どうしてエノクは僕の首を締めたの? 答え、殺したいから。
本当に?
どうしてエノクは僕の首を締めないといけなかったの?
わからない。
わからないから、首を締めた意味を考えるんだ。
どうして? どうして? どうして?
どうして小さい僕の指が届くくらいに、エノクは前のめりになって僕の首を絞めていたの?
「エノク、君も恐いんだろ」
「なんだと?」
どうしての先にあった、考えて考えた僕の答え。
生きたいから考えたエノクの気持ち。
死にたくないのに殺せないエノクの心。
僕の大切なお兄ちゃんの心。
「殺すのも、殺されるのも怖い。そうでしょ?」
そうじゃなかったら、ナイフを使わずに、手を使って絞め殺そうなんてするわけないもんね。
死にたくないから逃げた僕は、その先にあるナイフを手に掴んだ。
「お前は何を……」
エノクはナイフに警戒して、僕との距離を詰めようとしない。殺せないけど殺されたくもないエノクの心の表れ。
そして僕は、
「僕もそうなんだ。でもね、僕はエノクに生きて欲しいし、僕と同じになんてならないで。僕がお姉ちゃんを殺したって思うと、今でも心が痛いんだ。エノクにはそんな気持ちになって欲しくないよ」
ナイフを自分の首筋に当てた。これから僕は本当にナイフで自分の首を裂く。それくらいじゃなきゃ意味がないから。死ぬのが怖い?
「おい止めろ」
「大好きだったよ、エノク」
「止めろって言ってるだろ!」
恐いけど、恐いから、恐がらない。恐いから死へと触れる。凶器に怯えてたエノクは僕を死なせないために自分から寄って来た。
僕の自殺を止めようとしたエノクの胸に、僕はナイフを突き刺した。
「え……」
「エノクは優しいね」
殺し合いなのに、僕と自分の命、両方を護ろうとしているんだもの。
殺されるのも殺すのも嫌なのは、どちらの命も大切にしたいってことだから。
僕は優しくなんてなれないから、自分を選ぶよ。
僕は死にたくない。
「拓……」
悔しいとか怒ってるようには見えない、寂しそうなエノクの表情。瞬間、背中が冷たくなって、ぶちぶちと僕の中から一番大事なものが千切れていく、そんな感覚がした。
悲しいと思えない自分が哀しい。
目の前が真っ赤になり、泣きそうで、鳴きそうになったけど、こらえてエノクを押し倒す。
今度は僕が上になった。
馬乗りなり、両手でナイフを抜いて、また突き刺す。
抜いて、突き刺す。
抜いて、突き刺す。
抜いて、突き刺す。
抜いて、突き刺す。
抜いて、突き刺す。
そして僕は、初めて人を殺した。
いつの間にか千切れる音は消えていた。
僕という命はここにあるのに、僕という心は何処か遠くへ行ってしまったような気がした。
過去の僕は僕だった。
今の僕は誰だろう?
今でも僕はここにいる。僕の心は……。
「おら、今は食事の時間だと言っただろ」
エノクが終わって後に残ったのは凶悪な飢餓感で、牢の外から声を投げられた。
もう食事という意味も、はっきりと理解している。檻の向こう側にいる人達の心も考えたから。
僕が殺した肉の塊。僕はそれに口を付け、溢れ出る生暖かい血を啜る。
これだけじゃ食べられない。肉にナイフを入れてほじくる様にえぐって、肉にかぶり付く。筋張った食感と血生臭さが口の中に広がった。
吐き気がしたけど、僕の肉体は止まらない。僕が止めないと決めたから。
僕は死にたくない。
僕は生きたい。
僕は生きる。
外野から嘲笑と罵声を浴びせかけられるけど、そんなのは関係ない。
嬉しいとか悲しいとか、ましてや悔しいなんてどうだってよくて、生きるためにエノクの死肉を食べるだけ。
ごめんなさい、とは言わないよ。
許してくれなくていい。僕はエノクの命も背負って生きていくから。
いつか誰かに殺される日がくるまで、僕は必要ならば殺して奪ってでも生きる。
僕はもう震えてない。
そして僕は俺になった。