生き残るのに大事なのは優しさじゃなくて、命を繋ぐための意志だ。覚悟が生きる威力になる。俺はあの牢屋の中で生きる覚悟を悟ったのだ。
 気が付けば、俺の視点はエノクを喰らう幼い自分ではなく、その光景を見ている俺になっていた。
 懐かしい記憶だと思うけど、エノクの血肉がどんな味だったかは、もうほとんど憶えていない。今の俺にとっては、さして大事な思い出でもないから。
 もし姉さんが死なない、もしもの未来とやらがあったとしたら、今頃俺はどう生きていただろうか? そうしたら優しいままの俺でいられたのかな。
 その未来は、暖かな幸せを俺にくれていたのかと自問した。答えは出ない。
 すっと、俺の視界が闇に包まれた。
「もう、いいよ」
 背後から届いた声は俺のよく知る人のそれだった。
 暖かく穏やかな、優しいあの人の声。
 俺はゆっくりと振り向いた。
「姉さん……」
「もう、嫌なものばかり見なくていいから」
 姉さんが両腕を上げて、俺の両目を塞いでいるのだ。
 これ以上、俺に悪夢のような現実を見せないように。
 目からじんわりと心地良い熱が伝わってくる。姉さんが俺に与えた暗闇は、とても暖かかった。
「ごめんね、一人でずっと辛い思いをさせて」
 あの日から、俺は一人だった。
 俺が人を理解しても、誰も俺を理解してくれなかったから。そういう生き方を俺が選んだから。
「姉さん、俺はあまりにも多くの人を殺し過ぎたよ」
 姉さんの手を剥がして、直接姉さんへ向き直る。そこにいるのは、俺のよく知っている優しい微笑を浮かべる姉さんだった。
「エノクを殺して、俺はとっくに……戻れなくなった」
 一度でも人を殺したら、殺される覚悟だってしなければならない。奪う側に立った俺を、それでも姉さんは首を横に振って否定する。
 俺が許されても良い理由なんてないのに。こんな俺に、まだやり直せると示そうとしてくれている。
「私は知っているよ。拓馬はずっと生きるために戦ってきた。一度だって、殺すことを愉しみとして殺したことはないでしょう?」
「……うん」
 俺が奪うのは、俺が生きるため。袋小路だらけの悪辣なダンジョンから抜け出すために必要だからだ。活路はいつだって、自分以外が持っていて、俺はそれを奪って生き残ってきた。
「貴方がこれまで人を殺し続けてきたのは、全部全部、貴方がこの不条理な世界で生きるためだった」
 奪わなければ奪われていた。
 殺さなければ殺されていた。
 喰らわなければ喰らわれていた。
 ナイフを。
 命を。
 血肉を。
「どうしようもない世界で、奪うことが罪ではないのよ。どうしようもない世界が、貴方を壊していた」
 選べない世界と、逃げられない悪意が俺を追ってくる。どこまでも、どこまでもだ。
「俺を拐う悪意はまだ終わってないよ」
「大丈夫。もう拓馬は独りなんかじゃなくなるよ。一人ぼっちで、戦わなくていいから」
 自分を孤独だと思ったりはしない。けれど、ずっと一人なのは事実だった。
 輪廻さんに拾われても、鏡や修一がいても、管理局と関わりフェイト達に出会ってもなお、俺の一人は普遍的で変わらない。
 俺はずっと黒の中で一人立っている。フェイト・テスタロッサという朱に交わっても、黒は黒なのだ。
 それが俺の世界と呼べるもの、なのかもしれない。
 それでも姉さんは、俺の一人が終わると言う。俺の世界は変わると。
 誰も彼もを騙し欺き、自分だけを信じて生きてきたというのに。
 また昔のように戻れると?
 姉さんやエノクを想い、支えあいながら生きていた。あの頃に。
「拓馬だって、優しく生きる権利はあるの。知ってるよ。拓馬は人の心を自分のように感じられる、誰より優しい子だって」
 ここには優しい、俺を誰より大切にしてくれた姉さんがいる。この人は、まだ俺を支えてくれていたんだ。
 姉さんが両腕を広げた。俺を受け入れ愛するように。
「姉さん……」
「もう戻れはしないけど。やり直そう。私が大好きだった優しい拓馬に」
 微笑む姉さんの目から、一筋の雫が零れて。
 そうして俺は――