はじまりはじまり。

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 平穏という言葉を辞書で調べてみると、“変わったことのない、穏やかな状態”と記されている。つまりそれが一般教養から見た平穏の定義というわけだ。
 平穏を素敵なこと退屈なものと考えるのは人それぞれであろうが、この俺暁(あかつき) 拓馬(たくま)は、平穏をとても重要視して生きている。
 いくらビルゲイツクラスの世界的億万長者だって、その金を使う暇が無ければそもそも金持ちである意味はないだろう。
 俺は眠る暇さえ惜しみ働き続けて大富豪になるより、多少貧乏でも自由でゆとりある生活を送ることに意義を感じる人間だ。

 この前学校で書かされた進路希望の将来のなりたい職業にも、“しがないサラリーマン”と書いておいた。次の日、担任の先生に呼び出しくらいもっと将来に夢を持てと説教されたのも、今となっては懐かしい想い出だ。昨日のイベントだけど。

 しかし、呼び出しくらったのが昨日で良かった。右手で胸に抱くように持っている袋の中身のことを考えると、つくづくそう思う。
 平穏に欠かせないもの、それはささやかな趣味だ。ささやかな趣味はささやかな幸福を与えてくれる。これは疑う余地のない、厳然たる事実だ。

 俺にとってのささやかな趣味は、可愛らしい女の子といやんばかんなことを繰り広げる、という素敵物語が詰まっている夢のディスクを買い漁ることだ。
 ちなみに俺の年齢だと法に抵触するから、皆はくれぐれも真似しないように。皆って誰かなどというのは考えたら負けである。

 今持っている一本はついさっき買ったもので、現在は私服で帰宅途中だ。
 制服はゲームを買いに行くときに経由する駅のトイレで鞄に押し込み、今の服とチェンジした。
 ゲームやマンガの購入のために私服を常に鞄に入れてる馬鹿野郎は、自分だけという自信と確信くらいはある。ただし改善するつもりは皆無だから意味はない。

 今夜はグレートでファンタジーな世界を、ラブリーな平面世界のおにゃのこ達と冒険して、フラグ立てに勤しむとしよう。
 異世界。
 探検。
 冒険。
 全てフィクションだからこそ良いんだ。
 リアルに異世界へと召喚。そこへ君が伝説の勇者だとどこかの国王様に告げられ、世界を救いに可愛いお供の女の子と冒険の旅に出発……なんて、とてもじゃないけど許容できない。

 誘拐で、ともすれば強制労働という所は前提条件として目を瞑ろう。
 今までの現代基準の生活様式は一変して、不自由だらけの新生活。必死に化け物達と殺しあって、どこかで命を落とすかわからないような、不安定極まりない状態になるだろう。

 さらに最も重要なのは、女の子と本当にねんごろになれるかなんて保証はどこにもない。
 冒険の途中にイケメンで強い戦士がパーティーに加わって、俺馬車で空気なんて展開になった日には、目も当てられないじゃないか。
 こんな状況で何をどう楽しめというんだ! やっぱり、ありとあらゆる意味で荒唐無稽は二次元に限るね!

「……だというのに、さっきから俺は何故妖怪鴉に追い掛け回されてるんだ?」
「クカァー!」

 近くで鳴くなよ。現実逃避の邪魔になるだろうが。
 これはあれか? 懐が寂しいという理由から、貴重な女友達の小野宮(おのみや)円(まどか)と喫茶翠屋行く約束を破棄した挙句、その足で同人ショップに行ってたまたま本日発売のゲームを衝動買い。結果翠屋より遥かに金使ちゃったことへの天罰か?

 ちなみに翠屋とは、俺の行き着けのお店である。平穏に暮らすための重要なファクターの一つと断言しても良いくらいだ。週三回は通っているので、店の人にも完全に覚えられている。
 店や店員さん達の雰囲気も心地良いし、ケーキもコーヒーも逸品揃い。たまに一緒に入る友達円を恋人と思い込み茶化してくる意外は、ほぼパーフェクトな喫茶店だ。
 特に、時々お店を手伝っている店長の子供の栗色の髪したツインテール小学生なんて、あまりの可愛らしさに感動すら覚えた程である。
 いっそ店長さんをお義父さんと呼んでもいいですか?

 いやいやいやいやいや、そんな現実逃避してる状況じゃあないんだよ。
 じゃあどんな状況なのかと三行で説明すると、

 早くゲームしたくて近道で廃ビルに突入。
 何故か鴉が襲ってきた。
 死亡フラグ?

 と言うわけで、要するに大ピンチというわけだ。
 鴉が口から出してきた弾に被弾したため、肩と右足から血が滲んでマジ痛いんですけど。そもそも鴉って、飛び道具デフォで装備してるような不思議生命体だったっけ? しかも一度に複数飛んでくるから避け辛い。むしろいたいけな少年には、そんなもの避けれる道理はないだろう。

「クカァー!」

 サービス精神に定評のある鴉がさらに弾を追加してきたよ。こっちも叫び声に反応し、方向転換して階段を駆け上がる。それでも避けきれず、弾がいくつか身体を掠めた。

「痛っ!」

 イタイイタイ。
 俺は当たり判定小さい巫女でも、弾幕はパワーがモットーの魔女でもないんだよ! というか弾を撃つんならせめて擬人化しやがれ妖怪鴉! あ、できれば黒髪つるぺたでお願いします。
 そんな妄想してたためか、階段上ってから数メートルにて壁際に追い詰められた。
 はぁ、ここで俺の妄想妖怪鴉たんなら「えへへ、今度はお兄ちゃんが鬼だよっ!」と微笑むのだけどなー。現実は、

「クカカカァー!」

 てな感じで俺と一定の距離開けてバサバサ羽ばたきながら、勝利の雄たけびらしきものを上げている。バサバサするのは妖精の翼だけで十分だ。
 助けて、円ママン。あの子は家事と駄目男を甘やかすのが趣味な、それこそ一般人的な身体能力しか持たない普通の少女だから、実際に来られたら確実に状況が悪化するのでむしろ困るんだけどね。
 あれだ、どうしようなもくなったら母親にすがりたくなるのと同じ心理だ。リアルママはずっと昔にお星様となっており、顔も憶えてないから、ここはそれと最も近しい人間をイメージしてみたわけで。

 一通り叫んで満足したのか妖怪鴉たんはまた発砲してきた。とっさに腕で頭を庇うが、弾はわき腹をまた掠める。

 また、だ。
 さっきからこの妖怪鴉たんは、どこを撃つにしても直撃コースを狙ってこない。たぶん妖怪鴉たんが本気ならとっくに俺は蜂の巣にされていることだろう。
 まるで人間のようにサディスティックな嗜好だな。お、ここで妖怪鴉たん中の人説浮上しました。
 ああでも今ので俺の妖怪鴉たんが、つるぺた幼女からグラマラスでドSなおねー様に! うむ、それはそれでありだな。

「ぐぅっ!」

 今度は腿に命中するが、やはり掠めただけ。命には関わらないだろけど痛いものは痛いんだよ。
 俺の苦悶の声を聞いてまた妖怪鴉おねー様が叫ぶ。このままだと、嫌な悪循環になりそうだなぁ。こうなったら、かなりかっこ悪いけどしょうがない、やるか。

「た、助けてぇぇぇ!」

 絹は裂けそうにないが、全力の叫び声。発したのはもちろん俺だ。
 ドSな妖怪鴉おねー様は、ついに弱音という悲鳴を吐いた俺に歓喜して長い長い雄叫びをあげる。そしてさらなる悲鳴を求めて次の弾を――

「大丈夫ですか!?」

 だがしかし、その弾は突然割って入った二人の少女によって、俺に届くことは無かった。
 全力の叫び声。聞く者によっては命乞いとなり、また違う者によっては、SOSの救援信号にもなる。

 突如俺の前に現れたのは、ツインテールの美少女が二人だった。
 片方は栗色の髪に白いリボンを付けている。白と青が基調で、胸の赤いリボンが特徴的な服装。どことなく学校の制服を連想させ、清涼感を感じる。それにしても翠屋のあの子供に似てるなぁ、とそこは現実逃避しておくことにした。

 もう一名は金髪に黒いリボンで赤い瞳。キッチリした印象の強い白とは対象的に、露出の目立つ黒い服だ。服と同じく黒いマントを羽織ってはいるものの、袖が無い。下は赤いベルトをクロスさせていて、淡いピンクのミニスカートを履いている。けしからん。中身と一緒に持ち帰っていいですか?

「なのは。わたしはこの人を安全な所に」
「わかったよ。でも敵がこれだけとは限らないから気を付けてね、フェイトちゃん」
「うん、なのはも気を付けて」

 二人は手短に自分達の行動を決め、フェイトちゃんと呼ばれた少女は俺の方に向き直り手をとった。

「こっちです。わたしについてきてください」

 そう言うやいなや、フェイトちゃんは走り出す。無力なる少年は、共に続いて走り出すしか選択肢はなかった。

「カアアア!」

 せっかく捕らえた獲物を逃すまいと鴉も追撃をかけてくるが、なのはちゃんが前方に手をかざすと桜色で円形のシールドが発生して、弾丸を正面から受け止める。
 パニックホラーが急にSFへ変化し始めたよ!
 それに合わせて、自分の立場が怪物から逃げまとう主人公から一転し、スーパーヒロインによって救出されたモブキャラに変更された気がする。
 そっちのが良いんだけどね。主人公よりモブキャラの方が平穏に近いし。

「あなたの相手はわたしだよ!」

 鴉おねー様の弾丸を全て防ぎきったなのはちゃんは、魔法少女が持つには少々ハイテクそうに見える杖を構え直し、そう言い放った。

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 なのはちゃんと別れて数分後。現在俺はフェイトちゃんに両脇を持たれた状態で、ビルの中を空輸されている。
 逃げだした初めこそ己に生える二本の足で懸命に走っていたが、俺の怪我に気付いたフェイトちゃんが俺ごと抱えて運ぶことを進言してくれたのだ。
 なんというお気遣いの少女。まさに魔女の宅急便だ! ……なんて事を考えたバカヤロウとは大違いである。で、実際走るよりこっちのが速いから大人しく輸送されている。

 ちなみに、例のゲームは俺が胸の位置に抱えている。本人とは違って無傷だ。こいつだけはしっかり守り抜いた自分を褒めてあげたい。

「このままビルを脱出して、空間転移で私達の母艦のアースラという所にあなたを送り届けます」
「くーかんてんい? あーすら? つか母艦!?」

 一般人相手に難解な専門用語出されても、ちょっと反応に困る。下手に対応したくもないし。

「すみません! それは、えーとですね」

 すぐに自分の失敗に気づいたようだが、言葉に詰まっているところを見ると説明の仕方に困っているらしい。今の段階ですでに世界観違い過ぎるし、何よりこんなSFチックに空輸している状態じゃ説明のしようがないと言った方が正しいだろう。
 それより、ちょっとうっかり屋さんなところもまた可愛いらしいなぁ。

「ああ、無理に説明しなくてもいいよ。こんな状況だし、今は少しでも早く非難するのが一番重要だと思うから。これ以上君達の邪魔にならないためにもね」

 俺は視線を前方からフェイトちゃんに移し、そうフォローした。自虐交じりの我ながら微妙なフォローだけど。

「大丈夫ですよ。これがわたし達の仕事ですから」

 むむぅ、逆に俺がフェイトちゃんにフォローされてしまった。駄目な年上のお兄さんもいいところだ。

「何にせよ、運良く君達が来てくれなかったら今頃どうなってたか。ホントにありがとう」
「どういたしまして。あの……」
「暁拓馬だよ。拓馬でいいから」
「フェイト・テスタロッサ・ハラオウンです。えと、拓馬さん」
「うん。よろしくね、フェイトちゃん」

 今更なお礼と自己紹介をして視線をフェイトちゃんに向けると、彼女は俺にとって初めての笑顔を返してくれた。
 なんだか精神年齢俺より上じゃないのかと真剣に考えてしまいそうな少女だけど、笑顔は年相応な無垢な愛らしさを感じる。可愛い、超可愛い。

 今までも大して焦りや動揺を見せていない俺の異様に頑丈な精神は、少女の笑顔一つで現在の危険を無視してお花畑になっていた。頑丈じゃなくて異常なだけだな。
 まぁそんなことはどうでもいい。今はどうやってこの愛くるしい少女の携帯番号とメアドを聞き出すかだ。

≪ビルの外から多数の魔力反応を感知しました≫

 愛に餓えた狼と化していた俺の耳に、突然外国語で男の低い声が入ってきた。声の出所は――フェイトちゃんの所持する黒い斧。なのはちゃんの使っていたものより、更に武骨じゃなかろうか。魔法少女の杖とはやはり思い難いものがある。
 そして、男の声に呼応するかのうように壁が砕け、もう見慣れた無数の弾丸が襲ってきた。まだまだ平穏からは遠いらしい。

「危ない!」

 そう叫んだフェイトちゃんに投げられ、俺は無防備なまま床に身体を打ち付けた。ゲームを、とにかくゲームを死守せねば。

「痛ぅ、フェイトちゃん?」

 多少痛む身体を起すと、すぐ目の前に真剣な表情のフェイトちゃんが立っていた。
 前面にシールドを展開しているが、とても無事とはいえない。とっさに俺を庇うことを優先したため、防ぎきれなかったダメージの証が身体のあちこちに見てとれるからだ。
 しかもフェイトちゃんの目線の先にはさっきと同じ鴉が五匹になって、ビルの外で横並びに羽ばたいている。なんだか複数形になると、たんとかおねー様とかつけたくなくなるのはどういう心理だろうか?

「拓馬さん。わたしは大丈夫ですから、急いでどこかに隠れてください!」

 フェイトちゃんはそう言い残すと、飛翔して外の鴉達に向かって行った。
 その姿を見た俺は、フェイトちゃんの言葉通りに駆け出す。このままここにいても今みたいに足手まといになるだけだけだし、それどころか、下手に動き回ると別の鴉に襲われる可能性もある。ならば二人が鴉を退治するのを、どこかに隠れて待っているしかない。

 幸い、この廃れた場所に隠れれそうな場所は無数にある。この階以外の、そこらにある部屋の片隅なり、女子トイレなりに篭るのが手っ取り早いだろう。
 あれだよ? あえて隠れる場所が女子トイレなのは、俺が男だからと言う意外性とフェイトちゃん達が後で探しやすくするための選択であって、決していやらしい意味では……。

「カアアアァ!」

 階段を下りながらも、俺の独り言い訳絶賛稼働中な脳内に、本日幾度目か分からない鳥類の声が響いた。
 またかよ! そりゃこうも襲われまくればカンストしたくもなるさ。どういうエンカウント率だよ、俺が持っているのは『ドラクエ3』の黄金の爪じゃなくてエロゲーだぞ。

 声は後方から。もう振り向く必要も感じやしないので、そのまま走る。だが今度の鴉は容易く俺を追い抜き、目の前に現れ威嚇するようにいなないた。
 壁をぶち抜いたことといい、今のスピードといい、予想通りさっきまではいたぶる為に遊んでいたかよくわかる。

「よく頑張った方だけど、ここまでさ」

 逆走しようかハンズアップしようか悩んでた俺へと答えをくれるように、新たな人間もとい、どう考えても犯人が現れてくれたのはきっと僥倖に違いない。と、ハンズアップしながら俺は考えるのだった。